松尾芭蕉とは
俳聖 松尾芭蕉
歴史や俳句に詳しくない方でもその名はご存知のことと思います。
名前は知っていますが、松尾芭蕉って「奥の細道」を書いた人でしょ?って学校の試験で出てきそうなステレオタイプの知識しかありません。
2年前に東京で単身赴任中、あちこちに芭蕉の史跡があったので東京の人なんだァと思っていたくらいです。
先日たまたまですが、私がこんなブログを書いていることもあって、嫁も少し滋賀の史跡に興味を持つようになったのか、石山にある「幻住庵」に行ってきたというのです。
石山は昨年まで長男が通っていた高校のある地域で、PTAで高校に行くときに気になっていたとのこと。私は「幻住庵」なにそれ?っていうくらいでしたが、ちょこっと調べてみました。
松尾芭蕉は、1644年江戸時代の初めに伊賀上野の武士の家に生まれました。
武士と言っても普段は百姓をしている家で、どちらかというと帯刀を許された百姓の家みたいです。
10代の頃に歌人:北村季吟(この方は近江の人)の門下で蝉吟と称した藤堂良忠に出仕します。
その後29歳で江戸に。
31歳の頃にその北村季吟より秘伝書の伝授を受けました。
そして江戸の俳壇で活躍するようになってから深川の地に転居し、門人から芭蕉の株を贈られて
庭に植えたことから、「芭蕉」を称するようになったようです。
その後は全国を旅してまわり、その紀行として「野ざらし紀行」「更科紀行」などを記しました。
そして1689年にはいよいよ門人曾良とともに「奥の細道」の旅に出発します。
この旅は約160日間、2400㎞の行程だったそうです。
このように伊賀に生まれ、江戸で活躍し全国を旅してまわったことから実は芭蕉は忍者で、
特殊ミッションを背負った幕府のスパイだったのではともいう人もいるくらい・・・。
真実はどうであれ、謎めいた人物であることも芭蕉の魅力の一つですね。
近江を愛した松尾芭蕉
奥の細道は旅から帰ってから何度も推敲し文章の完成までに5年ほどかかっているそうです。
その間芭蕉は生まれ故郷の伊賀上野と近江の地で何度も滞在しています。
このころに多くを過ごしたのが、石山・国分の「幻住庵」であり、今は義仲寺の境内にある「無名庵」。この地で芭蕉は多くの門人たちと静かな日々を過ごしたのです。
ちなみに晩年の芭蕉は前後5回は近江の地を訪れ、無名庵では2回越年しています。
「芭蕉三十六歌仙の図」(芭蕉の門人を表した図)の36人のうち、近江の歌人は12人もいるのです。
また芭蕉はその生涯で980句を詠んだと言われていますが、そのうちの1割近い約90句を近江の地・
大津近郊を読んでいます。
いかに芭蕉がこの地を気に入っていたのかを知るエピソードですよね。
琵琶湖を望むこの近江が芭蕉の生きた時代にはそれだけ豊かな景観や風情溢れた土地であったことの証拠でもあります。
幻住庵に自転車で
そんな素晴らしい土地に私funazushi-maruも住んでいることをもっと感じないといけません。
で、ロードバイクで行ってまいりました。
梅雨時期であまり自転車には乗れていないのですが、その日の午前中に時間ができたことと晴れ間がでてきたので、ここぞとばかりに出発!
自宅を出て10分ほどで瀬田の唐橋を越えます。芭蕉はここ唐橋ではこんな句を詠んでいました。
「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」
京阪 唐橋駅を左手に見て踏切を越えます。
晴嵐小学校の手前が登りになっています。石山高校生は毎日この坂を登るんですね。
石山高校に自転車競技部があったらまあまあ良い成績が残せると思うのですが・・・。
名神高速道路の上を越えるところに標識があり、このあたりから「幻住庵」が案内されています。
国分の交差点までくるとあと少し。ちょっとわかりづらいですが、三差路のようになっている一番右を進みます。
ドンツキのT字路を左に行くと「幻住庵」の看板が出ており、ここから徒歩で登っていくことができますが…、
せっかくなので自転車はあえてこちらへどうぞ! ちょっとした坂が待ち構えていますよ。
100mほどで坂道は終わり、結構な広さの駐車場があります。しかし1台も停まっていません・・・。
やはり滋賀県の観光スポットはそのポテンシャルを生かし切れてませんよね・・・。
幻住庵で芭蕉を偲ぶ・・・
幻住庵は元は近津尾神社の境内のあたりにあったのですが、平成3年に再建されました。
駐車場からは「せせらぎ散策路」が整備されており、せせらぎの音と木陰に涼みながら幻住庵までの道のりを楽しめます。これだけの整備がされながら知られてないのが残念。こういうところが滋賀っぽい。
散策路の途中にも句碑がいくつか建てられており、俳句の世界に誘ってくれます。
せせらぎ散策路を進むと「とくとくの清水」と言われる泉があり、ここからせせらぎが流れています。
芭蕉がこの地での4か月間に記した「幻住庵記」には「たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ」とあり、この湧き水を使ったいたことを偲ばせます。
▲近津尾神社境内を望む
現在の幻住庵は近津尾神社のさらに上にあります。そこまでの道にはおそらく近くの小学校や中学校の子供たちのものだと思われますが、俳句が木々に吊るされていました。
子供のころから俳句に親しむことができるのは良いことですね。
その先に現れたのが質素な雰囲気の草庵と門。
この先に芭蕉が今も住んでいるかのような佇まいです。
幻住庵は芭蕉の門下・菅沼曲水(曲水は膳所藩士でした)の伯父 菅沼修理定知(幻住老人)がかつて暮らしていた庵を提供されて、ここに4か月滞在しました。
芭蕉の生涯から考えると4か月もの間一所に暮らしたのは稀だとのことです。それだけ居心地がよかったのか。
そしてこの幻住庵で「幻住庵記」を記します。1690年 芭蕉47歳のことです。(私と同じ年だなんて・・・)
庵には俳句投句箱がありましたが、何も浮かんでこず・・・俳句の才能はないようで。
今は管理人の方が日中はおられるようで、いろいろ説明などしてくださいます。
時折、鹿威しの音が「カコーーン」と響き渡ります。侘びさびの世界ですね。
庵の縁側から見える風景。
木々の隙間に見える眼下の大津市の街並み。芭蕉もこの景色に心癒したのでしょうか。
この日は久々の晴れ間で非常に暑かったのですが、この幻住庵のあるところは風がよく吹いて涼しい。
ゆっくりと何かを考え過ごすにはいいですよね。
是非秋にももう一度来てみたいと思いました。
近津尾神社
幻住庵から境内に降りますと、幻住庵記の碑がありました。
この近津尾神社自体は創建年代は不詳のようですが、門は明治になって膳所城が廃城になった際に移築されたものだそうです。
門の瓦には膳所藩主の本多家の家紋が付いており、これが膳所城のものであったことを物語っています。
太子堂
幻住庵の駐車場の向かいに「太子堂」というお堂がありましたので、こちらも行ってみました。
急な階段を登った先に割と新しい年代に建てられたと思われるお堂がありました。
たまたまお堂のお世話をされている最中のようで、中にいらした方にお話を聞くことができました。
ここにお祀りされているのは「聖徳太子二歳立像」。
鎌倉時代の作品のようで、元は京都の石清水八幡宮にあったものだそうなのですが、明治の廃仏毀釈の際にそのまま廃棄されそうになっていたところを国分の眞田武左衛門という方が400両で買い受けたものを大事にお祀りしてきたとのことでした。
現在お世話されている方もそのご子孫にあたられる方のようで、どおりで詳しいわけです。
お堂な中に入れていただき、太子像を見せてくださいました。
現在、太子像は滋賀県有形指定文化財の指定を受けており、一昨年の平成27年には145年ぶりに石清水八幡宮に里帰りし特別展にて展示されたとのこと。
あとで調べると鎌倉時代には聖徳太子ブームがあったようで、2歳像もそのころに全国で沢山作られているようです。とは言え実際に見せてもらった2歳像もなかなか見ごたえのある立派な像でした。
こちらのお堂のある場所も高台になっていて非常に見晴らしが良いんですよ。
この景色を見に来るだけでもここに来る価値はありますよ。
次は芭蕉が眠る場所 「義仲寺」へ向かいます!
(つづく)
こんにちは\(^o^)
幻住庵・・・大津に住んでいると名前は聞くけど中々立ち寄らないスポットですよねぇ
息子が小さい頃、散歩がてらに石山高校の辺りまで行っていたのですが
幻住庵にはやっぱり寄る事が無いまま現在に至っています。
でも、松尾芭蕉と滋賀(近江)がこんなに縁深いものとは知りませんでしたΣ(゚Д゚)
秋は更に侘び寂びの効いた雰囲気が感じられそうですね!
カーズさん、ポタリングコースに是非行ってみてください。良い坂ありますよ!
太子堂の高台からの景色を見るだけでもなかなか良いです。
幻住庵の登り口の手前にはカフェもあったりするので、歴史と景色とゆったりコーヒーを楽しめる
お手軽散歩コースとしてもいい場所ですね。
僕もこの幻住庵に興味をもってから知った芭蕉の近江好きなんですが、県内にある芭蕉の90個の句にまつわる
場所をまわるのもいいかもしれないなあと思ったりしています。