市民活動団体について思うこと

こんにちは、フナズシマルです。

私は今、二つの自転車関連の市民活動団体に所属しています。

ひとつは県内のとある自治体内での自転車利用を推進する団体。もうひとつは県内全体における自転車利用の推進により交通のシフトを促す環境活動が主旨の団体です。

どちらの団体も、私が自転車を通じて仲間と繋がり、自転車を共に楽しみながら様々な知識を得たり、経験させていただいた大切な場所です。この繋がり無くしては起業に至ることはなかったといっても過言ではありません。それだけ私の人生においても重要な場所です。

しかし今、どちらの団体もある課題を抱えています。

それは、

運営メンバーの固定化と組織の継続性の課題です。

今回私自身の活動に対する振り返りと、これからに向けてどう向き合うべきかを考えてみたいと思いました。これから以下に書くことは、自分を含めて客観的に見たときに、この点を気をつけなければいけないのではないか?という視点を出したものであり、共に活動する仲間への批判とかでは全くありません。

ということでその課題について私はとても心配しています。

どちらの団体もここにきて理事会メンバーの入れ替わりがなくなり固定化し、さらには限られたメンバー以外は徐々に会議などの出席率も減ってくるという事態になり、結果残された運営メンバーに事業の負担がかかってしまっているなと感じています。

また、残った運営メンバーだけでは人間関係も固定化されているため斬新で大きく方針を見直す意見は出づらく、結果的に前年踏襲的なことを毎年繰り返すという流れになりがちです。しかしメンバーが減っている分、運営メンバーのさらなる負担を生んでいき、それが新加入メンバーにとってはハードルになるという負のスパイラル…。

なぜこうなるのか考えてみました。

これら二つの団体はボランティア人材で成り立っています。

メンバーには社員のような契約関係はありませんので、多くの参加者はあくまでも自分の余力の範囲で協力するというスタンスを取ります。しかし、それぞれの余力や考え方は当然ながら時間と共に変化します。会社の異動や転職になったとか、子供の成長や親の介護といった生活の変化、健康面や精神面の変化も大きいです。またその団体の活動自体への見方も変化します。

同じボランティア活動としては自治会や消防隊、PTAなどの地域の活動があります。これらは参加条件に当てはまれば半ば強制的に参加が求められるものとなっていることが多く、その地域に入った人は何らかの形で順番に役が回ってきます。ただそれですら最近は徐々に無くそうという流れもあったりします。私の地域でも子供会が無くなりました。

ですから強制力の小さい、参加者のモチベーション頼りとなる通常のボランティア団体を継続してくことはとても難しいことになると思われます。

その結果、長年続く組織であればあるほど参加者の環境は変化し、離れていくメンバーも増え、残るのは比較的モチベーションの高い運営メンバーだけになってしまうのだろうなと…。

このような状況になったときに、残った運営メンバーの中では「なぜ活動メンバーが増えないのか?」「どうすれば活動メンバーを集められるのか?」という議題がよく出てきます。

また、いつもの運営メンバーだけでは意見が不足するため、「私たちの活動に周囲は何を求めるのか意見を聞く場面を作ろう!」という話もよく出ます。しかし、このような機会を設けてもあまり意味はないどころか、却って変な方向へ議論が迷走しがちです。

ところで私が思うに、そもそもこのような市民団体は継続しなければならないのか?

という疑問があります。

元々はある目的のもとに結成され、数年にわたって活動してきたのだと思うのですが、こういったボランティア活動については、経済的・人的(想い)のエネルギーは有限ではなかろうか、ということです。

だから結成時の目的が果たせたのなら一度その時点で解散するか、改めて目的を設定して新しい組織として立ち上げるなどが必要じゃないかと思うのです。

少しキツイ言い方になってしまいますが、おそらく残っている運営メンバーにとっては長年そこで活動してきていることが自分のライフスタイルの一部となってしまいがちなので、その団体の活動を同じように毎年動かすことが目的化してしまってないか、という点は注意すべき部分です。

もしそのような状況になっているならば、そのメンバーのための組織となってしまい、ますます他人が入りづらい組織へとなっていく懸念があります。大抵の場合、そうなっていることを中の運営メンバーはなかなか気づく機会は少ないと感じます。

では一体どうあるべきなのか?

大切なのは『設立の主旨に立ち返ること』なのではないでしょうか?

当初設立したときが燃料満タンだったとすれば、そのエネルギーを使ってどこまで走ってきたのか、目的地には着いたのか、着いてなければあとどれくらい走れるのか…。そこをしっかりと見定めて活動をすべきなのでしょう。

要するに活動自体が目的化してしまっていないかを客観的に見直し、目的を改めて明確化すべきだと思います。それで目的達成できている状態なら潔く解散も検討が必要となります。

もし目的達成していないのであれば、改めて道筋をしっかりと整理し、それを世間に対してPRし協力者を募ればいいでしょうし…。よろしくないのは中心メンバーによる組織の私物化が起こってしまうことだと思います。

仮に運営メンバーとしては良かれと思ってやっていても、それが世間の望む方向性と違っているのであれば、それは私物化していることと本質的には大差ないと私は思うのです。

活動が運営メンバーのサークル活動的になってきているのであれば、一度設立の主旨と照らし合わせ、サークル的部分と分けて考えるのもありでしょう。これは決してサークル的部分を否定するわけではありません。ボランティアでやっている以上、楽しく和気藹々とできる部分は必要です。しかしだからといって運営メンバーはあくまでもその団体の設立主旨に基づいて運営する主体なのであり、そのための活動資源を預かっており、目的に対する責任があると思うのです。

活動資源には公的なお金が入っていることもあるでしょうし、様々な企業や個人からの会費や協賛金などもあるでしょう。また人的に支えてくれているメンバーの個々の想いもあるはずです。こういった人々から預かっている活動資源に対し、運営メンバーは真摯に目的と向き合うことが求められると思います。

もしここまでの活動を通じて現在進行形で動いている事業など作れている場合、それはそれで切り出してボランティアではない形で事業として運営の仕組みを別に用意し、継続的に動くようにすべきです。いずれにせよ、ボランティア活動が永遠に続くとは私は思わないです。

しっかりと目的と活動を明確化すれば、その主旨に対しての想いがある人が集まってくるはずです。全ての活動がどういうゴールへと向かっているのか、そこを言語化して賛同者を集めるという愚直な活動なしに、こういったボランティアによる市民活動は継続できないと思います。

だからこそ、「自分たちは何がやりたかったんだったっけ?」的な議論になりつつあるなら、その活動自体は消費期限を迎えているのかもしれません。

せっかく多くの大切な時間と労力を費やす活動ですから、もう一度設立主旨に立ち返って今の事業が適正か見つめ直せるように、今後の活動の中で意識していきたいと思います。