佐久良城跡
ここ最近は湖東地域を中心としたサイクリングツアーを催行していたりするのですが、先日下見で走っていたら道端の鳥居の側にあった「佐久良城跡」の案内板が目に入りました。
滋賀県の知られざる歴史スポットを探す癖があるので、こういった案内板にはつい目が行くんですよね…
それにしても最近建てられたかのような新しくしっかりとした案内板。おそらく整備に手が入っているのだろうと思い、ちょっと様子見ながら入ってみることに。
階段を上がるとまた鳥居。まさかこれが城跡?ではありません。これは八幡神社の境内です。(正確にはこの場所も佐久良城の城山の一部だと思いますが)
この鳥居のところを右へと進んでみます。
すると、佐久良城跡への案内板がまた現れました。細い登り坂が茂みの中へと続いています。
なんか時間かかりそうだな…と思いつつも、山の大きさからするとそんなにも奥深くに入る感じはしないので進んでみます。
きれいに整備された城跡
階段を登り終えるとすぐに獣害防止柵が見えてきました。本丸はこの先のようです。
扉を開けて先へと進みます。
道は歩きやすく、しっかりと整備してくださっています。ここには古墳もあるようですね。
「近江の山城を歩く70」(中井均先生編)によれば、曲輪は本丸を含んで4つあるそうですが、この写真の位置は2つめと3つめの間にある堀切。写真ではよくわかりませんね…
いたるところにちゃんと案内表示してくれています。しかも割と新しいもの。
距離表示があるとさらにわかりやすのですが…。(これでも十分すぎるのですけどね)
本丸前の2の曲輪との間には、あきらかにそれとわかる大きめの堀切と「土橋」。
細い道の左右がここだけ大きく落ち込んでいて、土橋っていうのがわかりやすい場所ですね。
土橋をすぎるとすぐに大手門跡のところ出ます。こちらもわかりやすい虎口が土塁の盛り上がりの真ん中でV字に切れ込んでます。
そこを入ると本丸。本丸は木が沢山生えていて、あまり全体像がわかりません。土塁もそんな高さはないようですね。
素人目にはこっちのほうが「おおっ!」となる。
本丸の四隅には望楼があったそうで、そのうち2つが今も残ります。不自然に盛り上がった台形の地形でそれとはっきりわかりますよ。
本丸を迂回しながらさらに進むと、少し下った場所に「お馬洗いの池」がありました。こちらは今も水を湛えています。
それぞれ順路の表示もしてあって、それに従っていけば迷うことなく元の場所に帰れます。
写真は「帯曲輪の跡」。
佐久良城は本丸を囲むように山の中腹に平たい場所があります。ちなみに今のその高さあたりに民家があったりするので、その名残なんじゃないかということです。
佐久良城とは
実は、神社の鳥居のあった場所から少しだけ右手の広くなった場所にいくと、立派な看板がありました。「なあんだ、こんなのがあったのか…」としげしげと眺めていたら、この山のオーナーだと仰るお父様お母様がいらっしゃいました。
ちょこちょこ車やバスでお城ファンが見に来るらしく、みんなに見てもらいやすいように日々掃除したりしていただいているそうです。ありがとうございます!
「掃いても掃いても、落ち葉だらけになるし大変なんよ〜!笑」とお母様。
結局ここで1時間くらい過ごしてしまいました(笑)。(山城だけなら一回り30分くらい…)
佐久良城は「近江の山城を歩く70」によると、標高は210mで築城時期は応仁・文明年間とのこと。
南北朝時代はこの地域は儀俄氏(蒲生氏)が納めていたが、南北朝後期には小倉氏が支配していたのだそうです。
応仁の乱の時期の当主・小倉実澄は近江守護となる京極家に属し永源寺の八尾城を中心に活動していました。乱を避け近江に逃れてきた相国寺の学僧を永源寺に庇護したときに、私邸に招いたと言う記録があり、それがこの佐久良城を指すと考えられています。
その後、六角氏の家臣団となりますが、実澄の孫・実光の代に実光が一揆で殺害される事件がありました。実光には嫡男がいなかったため日野の蒲生氏から蒲生実隆(がもうさねたか)が養子に入ったことで、小倉氏内部に惣領家の争いが起こります。
最終的には蒲生氏の一門として存続したと記録には残るそうです。
築城時の当主・小倉実澄の菩提を弔う寺が実光の代に建立されています。
それが佐久良城からすぐの場所にある「仲明寺」です。
こちらもサイクリングツアーのルート上にありました。なかなか見応えある立派な山門ですので立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
ここからすぐ見えるところに「鳥居平城」という城跡もありますよ。
佐久良城の場所
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