【ヤジキタ最終章・2023日光&奥州道中編】④そして五街道フィナーレへ

日光&奥州道中編の最終日スタート!

全国の旧街道サイクリングファンの皆様こんにちは! フナズシマルです。

ヤジキタ最終章・2023日光&奥州道中編の最終日がスタート。

三日目のブログはこちら↓

泣いても笑っても今日でこのヤジキタ五街道サイクリングは完結する…はずなのですが、この三日間天気も良くって忘れていたことがありました。

そう、台風7号です。

元々出発時点の8月12日の予報では、8月15日ごろに東京方面に上陸する進路でした。なので日本橋にゴールしたら一晩足止めくらって、その晩は日本橋の馴染みの居酒屋にでも入って過ごし、翌朝に新幹線で…という目論見でした。

ところが、14日の時点で台風7号は進路を近畿方面に移し、ちょうど15日〜16日にかけて京都や滋賀あたりを直撃しそうな状況に。

こうなると話が違ってきます。

昨日の中禅寺湖畔でY工場長の到着を待っている間、台風情報を色々と調べていたところ15日は東海道新幹線は動くことは確定しているものの、翌日は不明とのこと。

(や、やばい。こりゃ15日のうちに京都まで帰らないとマズイ…)

その場でスマホを使って新幹線の予約を取り直し、大混雑覚悟で帰ることにしました。

この日の走行距離は宇都宮〜日本橋までの106km。皮肉にもこの4日間で一番長い距離を走らなければなりません。果たして間に合うのか!?

宇都宮〜新田宿

実は日光道中、ここから日本橋まではほぼ国道4号を走ることになります。ところどころは旧道があるにはあるのですが、旧街道あるあるの元々はうねっていた街道を国道がまっすぐぶち抜いたことで細切れになった街道が、国道の脇に散らばっている感じです。

こういったところを忠実に走ると、国道をあっちこっち横断しまくったりしてサイクリングとしてはまったく楽しくはありません。なにか発見がある場所ならよいですが、ただの田んぼ道だったり住宅街だったりと、さして街道らしさもなくなっていたりするのです。

この日1つめの宿場町は「雀宮宿」。

宇都宮から日本橋は完全な田舎っぽさはなくなり、風景はいわゆる国道のロードサイド的なものが続きます。「雀宮宿」のあたりも取り立てて宿場町の雰囲気は残っていないので、車で走ってたらまず気づかないでしょう。

雀宮神社とその先に「旧仮本陣芦谷家」があったので、ここはまだ分かり易い方かもしれません。

その次は「石橋宿」。

もはや交差点の名前以外とくに見つけることもできませんでした…。

この石橋宿から次の「小金井宿」の間に一里塚跡が二つありますが、下石橋一里塚のあたりは地図に道が出てきません。ただ旧街道がこのあたりに通っていたことは間違いないようです。

行ってみると地図にない道が現れました。

なにやら注意書きの看板が立てられ『これより赤道(注1)です。通行は自己責任でお願い致します。下野市日光街道一里塚保存会 (注1)赤道(あかみち)とは、国家が所有していますが、道路法の適用のない道路のことです。』とあります。

ここまで街道を色々と見てきましたが「赤道」という言葉は初めて見ました。要するに何かあっても整備はしてないから国や自治体に文句言わないでねってことなんでしょうね。

赤道とは

公図上で地番が記載されていない土地(無籍地)の一つで、道路であった土地をいう。

古くから道路として利用された土地のうち、道路法の道路の敷地とされずにそのまま残った土地がこれに該当し、国有地である。公図に赤色で着色されていることから「あかみち」と呼ばれている。

現に、道路でなくその予定もない赤道の払い下げを受けるには、用途廃止等の所定の手続きが必要である。

【三菱UFJ不動産販売 不動産用語集】より引用

とは言っても、雑草が生い茂りそうな夏場でも草もしっかりと刈ってあるので、おそらくは保存会の方が街道ウォークなどの方のために整備しているのではないかなと思います。あくまで個人の想像にすぎませんが。

そこから少し行くと国指定史跡となっている「小金井一里塚」がありました。今となっては街道の両側に一里塚が残っているところは結構珍しいので、この区間は日光道中でも立ち寄るべき重要なスポットと思われます。

「新田宿」は物置の脇に立派な看板が設置されていました。

街道を保存したい人々の思いと、生活優先の諸事情が色々と垣間見えます…。もう少し風情を、と思うのは観光客側の勝手な言い分であり、何が正解などと単純に言える物ではないでしょう。ただこの景観から考えさせられることは多いです。

小山宿〜中田宿

新田宿のあと、しばらく国道から離れ、東北新幹線沿いを旧道は進みます。

その先が「小山宿」です。

ここは上杉討伐に出て行った徳川家康が石田三成の挙兵を知り、関ヶ原へと引き返す際に軍議を開いた有名な「小山評定」の舞台となった場所です。

小山市役所の立派な庁舎の前にその石碑がありました。

台風が西へと進路を取ったことで、かろうじて青空が見える天気の四日目。ただところどころにドス黒い雲も浮かんでは消えます。おかげで真夏に関わらず灼熱というほどではありません。

Y工場長というと、私が「間々田宿」あたりで何か残っていないか探している間を利用して日陰で休憩されていました。

「野木宿」にはひまわり畑があるそうなので立ち寄ってみましたが、丁度前の週にひまわり祭りが終わったみたいで、耕されたあとのひまわりの残骸しか見れませんでした…。

歩道に松並木の残る「中田宿」。

ここは決して風情豊かな景観とは言えないまでも、この地域のアイデンティティとして街道を少しでも守り伝えていこうという思いが見えます。

中田宿を越えると利根川が現れました。

国道メインということもあり、良くも悪くも大した見どころもないのでスケジュール的には順調。ただこの先の東京方面は一雨降りそうな空です。

栗橋宿〜越谷宿

利根川を渡ると「栗橋宿」に入りました。

ここは商店街があって、栗橋宿の旗が宿場町であったことを主張しています。

利根川を過ぎると国道4号は川の堤防の上を走りますが、街道はその下の道となっています。途中、この堤防を何度か潜るように進むので非常にややこしい。面倒なので国道の歩道を行くか、と思って進み出したら雑草が茂りすぎてまるでジャングルのようになってしまい、思わず引き返したりしました。

桜並木の続く遊歩道

少し行くと川沿いの遊歩道となったので、しばらくはノンビリと走ることができました。

この川は利根川支流の権現堂川という貯水池になっており、周囲には公園が整備されている様子。春には約1000本のソメイヨシノが咲き誇る地元の桜の名所みたいです。

この時点で雨が強く降り出したので、近くのトンカツ屋で昼飯にしました。

昼飯を食べている間に雨雲は通り過ぎた様子。晴れ間も見え始めたので後半戦をスタートします。

路面はさっきの雨で水たまりだらけ。雨は止んだものの、後輪の巻き上げる雨水で背中がドロドロになります。

意外と地方よりも東京に近い街のほうが宿場町であることを主張している場合が多いように感じます。

「幸手宿」や「杉戸宿」のように、その地域における中心街的(両方とも役場がある)な機能が残っていて、宿場町時代からの街としての力を失っていないようです。

その傾向は東京が近づくにつれてより強くなります。

クレヨンしんちゃんの地元、現在の春日部市は人口23万人の大きな街。ここがかつての「粕壁(かすかべ)宿」でした。史跡自体は少ないものの、しっかり街のあちこちに日光道中・粕壁宿の案内表示が設置されています。

続いて「越谷宿」。

小泉家住宅
築120年の屋敷・旧大野邸 秤屋をリノベーションしたショップ

今回の旅でようやく街道らしい街並みが残る風景に出会えたのが「越谷宿」でした。

元荒川を渡り、そのエリアに入った途端に醸し出される佇まい。歴史を重ねた建物が多く残り、またそれらがリノベーションしながら活用され、古くて新しい街並みとなっています。都会の中にあって、こういった形で歴史的な景観が残さているとちょっと嬉しいですね。

明治から昭和の雰囲気が今も残る越谷。もう一度ゆっくりと歩いてみたい街でした。

草加宿、そしていよいよ4度目の江戸へ!

越谷宿を越え、綾瀬川に架かる蒲生大橋を渡ると、川沿いに松並木と石畳風の道がまっすぐ伸びていました。日本橋に近づくほど街道風情が高まっていきます。このあたりからが「草加宿」があった埼玉県草加市となります。

綾瀬川沿いの南北約1.5kmの旧日光道中はかつて「草加松原」や「千本松原」と呼ばれ、明治10年の頃には約800本もの松並木があったそうです。一時は車の排ガスなどで60本まで減ったのですが、市民団体の熱意によって現在は約600本まで回復。「日本の道100選」にも選ばれ、まさに草加市のシンボル的な街並みの一つになっています。

草加と言えば「草加せんべい」ですよね。

お土産買うなら草加せんべいにしようと思っていたので、いくつかおせんべい屋さんがある中でなんとなく良さげに感じた「堀井商店」さんへ。こちらは草加でせんべいを製造販売して80年のお店です。あとで家族で頂きましたが、とても美味しいおせんべいで大好評でした。

日没迫る中、いよいよ荒川を渡り江戸へ入りました。ここまで来れば新幹線にも間に合いそう。ただ一番危ない夕暮れ時、かつ一気に交通量や人も増えるので気を抜かず安全第一で進みます。

本当にフィナーレ…、ついに五街道完全走破へ!!

日本橋から数えて一つ目の宿場、要するに今回最後の宿場が「千住宿」です。

東海道の品川宿もそうでしたが、東京都内の旧宿場町は今も商店街があって賑わっているところが多いように感じます。この千住宿も宿場町通りとして多くの人が行き交う商店街になっていました。自転車で走るのは難しそうなので、ここは押し歩きで通り抜けます。

南千住駅の跨線橋を渡ると、眼下にビルに囲まれた広大な貨物ターミナルの線路が広がっていました。

先日日光まで見送りに来てくれた後輩のF君。日本橋のゴールで同じく後輩のK君と一緒に出迎えてくれると言うのです。この日はたまたま営業先の案件があって二人でそれに参加してから向かうとのこと。なんか気を遣ってもらって申し訳ない…。けどめちゃめちゃ嬉しい!

F君と到着予定をラインで連絡しつつ、日本橋を目指します。

浅草を通り抜け、蔵前から馬喰町へと入りました。馬喰町はかつて東京単身赴任時に会社の事務所があったところ。懐かしい思い出の街を自転車で走り抜けます。五街道の最後がこのルートなんて感慨深過ぎる…。

もし台風が来ていなかったら、今晩はこのあたりのホテルで一泊して、当時の馴染みの居酒屋「小伝馬」で祝杯を上げようと決めていたのですが…(ここの居酒屋は滋賀県草津市の地酒「道灌」がメインの日本酒なんです)。小伝馬の看板を横目に名残惜しさを感じつつ、今は無事にゴールすることだけを考えて走ります。

室町3丁目の交差点まで辿り着いた頃にはすっかり日も落ちていました。

交差点を直角に曲がり、重厚なビル群を通り抜け、まっすぐ突き進めば日本橋へ到着します。自転車用のブルーラインが私たちをゴールまで誘ってくれているようです。

改めてY工場長と一緒に一呼吸おき、「さて、ゴールしますか!」と合図。

ゆっくりと日本橋まで、あとわずかな距離を二人揃って噛み締めるように走ります。

そして…、

ついにゴール!

工事中の日本橋の手前で自転車を降りて、左側の歩道を歩いて橋の中央付近まで行きました。

そこにはクールビズ姿の後輩のF君とK君が待っていてくれていました。

休日出勤の中わざわざこんな私たちオヤジ達のくだらない趣味に付き合わせてホントに申し訳ない…、けどやっぱり誰かが待っていてくれて、くだらないチャレンジだけどゴールを見届けてくれたことは感謝しかありません。この感謝の気持ちはいつか街道チャレンジする誰かがいたら、その誰かに同じように返したいと思います。

F君、K君、 本当にありがとう!

東海道から始まったこの7年…

すっかりとオーバー50になってしまった少々痛いオヤジ達のチャレンジはこれにて一旦終了となりました。

この後は東京駅まで再度走って、自転車を輪行バッグに入れ、無事に予定時刻の新幹線に乗り込むことができました。思ったほど混んでもいなかったので助かった…。

多少でも空いているだろうと「ひかり号」の特大荷物スペース付きシートにしました。ところが途中から外国人ファミリーが特大のスーツケースを持って大勢で乗り込んできたので彼らの荷物をスペースに入れるのに一苦労。まあ何とか京都まで帰ることができました。

翌日、新幹線がまったく動いておらず東京駅は大混乱だった様子…。仮に動いたとしても、そんな中で輪行なんかしたらダイヒンシュクだったと思われ…。間一髪でした。

後日、Y工場長はというと翌日寝込んだと連絡がありました。やはり体調が良くなかった中かなり無理していたみたいです…。出発の二週間前にコロナに罹って、治ってから一週間以上は経っているものの、体力が戻り切らない状態だったのでしょう。昨年は私がコロナに罹って行けなかったので、今回は何としても実現したかったのだと思います。

そうかも…、とは思いつつ本当に無理なら無理という方なので、行けると言う以上はY工場長の意思を尊重するしかない。

もうちょっと優しく気遣ってあげたら良かったのかもしれないけど、そんなヤジキタもなあ…。ということでいつも通り頑張っていただきました。Y工場長、本当によく頑張って走り抜きましたね!

五街道を走破して

人間、慣れって怖いもので…。

意外にも終わってみればこんなものか、って感じです。

最初に京都から東京まで東海道を自転車で走ることを考えた時、正直とんでもないことにチャレンジするかのような心持ちでした。

思えば自転車に乗り始めたころは5kmが10kmに、さらに20kmと伸びるたびに、とんでもなく自分の能力が上がったかのように感じたものです。やがて100kmを超え、そして200kmと行動範囲がどんどん広がり、ついにはそれが五街道走破に繋がったのだと思います。

今となっては日光&奥州道中なんて本当に旅行気分なので冒険感なんてこれっぽっちもないくらい(Y工場長はしんどかったと思いますが…)。もはや距離の長さは時間さえあれば克服できると思えるので、1000kmでも2000kmでもそんなにスゴイこととは感じないようになりました。

と、生意気にもそう思える私になっていることが、この五街道から得たものなのかもしれません。

自転車によって生身の力だけで動ける範囲がどんどん広がって行き、動いた分だけ自信になっていく。おそらく日本一周すればそれだけ、世界一周ならもっとそうなのかもしれません。

それよりも五街道はヤジキタの二人三脚で走破したことを誇りたい。

そう、ここまでY工場長と二人で走ってこれたことが何よりも嬉しい。そして楽しかったのです!

7年もの間、お互い立場も色々と変わりつつある中、ただあの時私が「東海道走ってみたい」にY工場長からの「行きたいんなら一緒に行こうや!」に始まったこの旅を、この関係性を大切にしながら続けてこれたことを有り難く思います。

ちなみに普段まったく自転車に乗らないY工場長は、この旅のためにロードバイクを買って、しかもこの旅の時にしか使っていないのですから。

さらに最近でこそ旧街道にある史跡などに多少は興味をもってはくれているものの、もともと畑の野菜くらいしか興味のカケラもなかったくらいなのですから。

しかも、私のイビキはとんでもなくうるさいので一緒の部屋で寝るとY工場長は不眠症になるし、坂道では遅いからY工場長のことは放っておくし、すぐY工場長ハンガーノックになってしまうし…。途中で迷子になったり、こっちで手配した宿にあーだこーだ文句言われたりするけど…、

Y工場長との旅はどこを切り取っても楽しい思い出ばかりの旅でした!

毎晩、飲んだり食ったりいっぱいして、いっぱいクダラナイこと色々話して、バカにしたりバカにされたり…。

Y工場長のおかげで、私の人生にこんなにも面白くて素敵な時間を作ることができました。せめてそれらの素晴らしい?思い出の数々はブログという形でここに残しておきたいと思います。

まだもしかしたら違う旅に行くことがあるかもしれないけど、ひとまずここまでのことを相方に感謝申し上げ、「ヤジキタ五街道自転車旅」を締めくくりたいと思います。

では、またいつか! 

「次どこいく?」

追伸

改めてこの五街道の中で出会った皆様、応援してくれた方々に感謝申し上げます。このサイクリング旅を通してとても私自身素晴らしい体験と出会いを得ることができました。是非皆様も自転車でも歩きでも良いのでこの素晴らしき街道の旅へチャレンジしてみてはいかがでしょうか?

(2024年1月 フナズシマル)

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