ロードバイクでめぐる近江の旧街道~朝鮮人街道(前半)

朝鮮人街道 サイクリングルート

久々に週末の天気が良くなった2月26日、さっそく「朝鮮人街道」の旅に出かけました。
旅と言っても朝鮮人街道自体はおよそ40kmほどの道程。ロードバイクなら散歩程度の距離ですよね。
とは言え出て行ったら帰ってこないことにはいけないので往復80km以上にはなります。

で、今回は行きは朝鮮人街道、帰りはゴールとなる中山道鳥居本宿から、そのまま中山道を戻るルートとしました。

中山道草津宿をスタートして野洲市行畑からは朝鮮人街道を進み、鳥居本で再び中山道にでて帰ってくると言うまさに「近江国旧街道1周コース」
およそ100km弱のなかなかにサイクリングコースとしても良いコース設定ではないでしょうか?

朝鮮人街道ってどんな道?

ここで改めて朝鮮人街道についておさらい。
朝鮮人街道の成り立ちは織田信長が安土の街を作った際に往来を増やそうと、中山道からの脇街道として整備したのが始まりです。
朝鮮通信使は一時豊臣秀吉の政権時代に朝鮮出兵によって国交は断絶してましたが徳川幕府となり国交を回復。
その後幕府は約12回朝鮮からの通信使を迎えることになりました。
この街道は家康が関ヶ原の戦いに勝利したあと京への凱旋に使った幕府にとっても非常に縁起の良い道でもあり、
そういった意味からも外国のお客様を持て成す道として大きな意味があったのです。

通信使一行は釜山を出発したあと対馬から関門海峡を通って瀬戸内海に入り、大阪湾から淀川を上って伏見に上陸。その後京都を経て東海道を使って
近江に入り草津から守山へと進みました。一行は京都を出た後守山宿で一泊、近江八幡で昼食をとることが多かったようです。そして彦根を経由し
鳥居本から中山道へ入り、中山道を大垣まで進んだ後は再び名古屋あたりから東海道に入り江戸に向かったそうです。
この長い道のりの中でなぜかこの行畑~鳥居本間だけが「朝鮮人街道」と呼ばれています。
(他に街道内の地域によっては下街道、京街道などの呼び名もあり)

朝鮮通信使の歴史

朝鮮通信使自体の歴史は室町時代まで遡ります。
時の将軍 足利義満は、それまで日本の為政者の主流な外交上の考え方であった❝中国との対等な関係❞という位置づけを改め、
中国(当時は明)の冊封(冊封=明の皇帝に貢物をして、皇帝からその国の国王であるというお墨付きを受けること。言わば明の傘下に入ること)
をうけ、東アジアの秩序の中に入ることとなったのです。
そのため同じく明からの冊封を受けていた朝鮮(当時は李氏朝鮮)とは対等という立場となり、明の下での対等・友好を築いた形になりました。
そこから秀吉とのいざこざ(文禄・慶長の役)はあるものの、室町から江戸時代終盤という約450年もの長い年月において国交が続いてきたんですね。
当時の朝鮮通信使は国賓として最大限のもてなしを受けました。普段は川などには防衛上橋が設置されていないところが多いのですが通信使が通るために
橋を新設したりしていたくらいです。
通信使を受け入れることはそのくらい国を挙げての一大イベントであるため莫大な費用がかかりました。
(百万石との話も・・・)
徳川幕府の影響力が衰え始めた幕末はあまりに費用がかかるため、最後となる12回目の際には応接は対馬ですることになってしまうのです。
幕末から明治にかけて再び「征韓論」などに代表される朝鮮に対する優越を示し属国とみなす考え方が広まってしまいます。
そして通信使の歴史は途絶えました・・・。

というのが簡単ですが朝鮮人街道の歴史の一部です。歴史を感じますよね・・・。
さあ、出発です!

中山道:草津宿~守山宿

ここからは実際にロードバイクで走った街並みを写真で紹介していきます!


いつもの草津宿から出発です。ここは中山道と東海道の分岐点。
まずは草津宿から中山道を守山宿に向かいます。


現在の中山道は草津川下をくぐるのです。草津川は天井川なんですね。


中山道は住宅街の中へ。ここはちょっと迂回が必要な場所。直進できないのでここで
右折します


マンションを越えて少し行くと、川沿いの細道があります。
真っ直ぐいってJR下のガードを潜ります。


このガードもなかなか年季の入ったもの。


出たところにこの迂回路の案内がありました。さすが中山道、メジャー旧街道だけにこういった案内も充実してますね。


守山市の花園交差点を越えます。

しばらく行くと、

大宝公園があり、その奥に大宝神社があります。

ここには芭蕉の句碑があります。


土橋を越えるといよいよ「守山宿」


守山宿に入ったあたりに「東門院」という赤く大きな提灯が目立つ寺院があります。
この神社、比叡山延暦寺の山門として延暦寺を守る役割のある寺院なのです。
山を守る・・・守山?
その昔は「東門院 守山寺」と言われ、現在の守山市の地名の由来と言われます。


ここが守山宿の本陣跡です。本陣こそないですが、守山宿も案内所やうの家など昔の風情を残した街並みがあります。

中山道:守山宿~朝鮮人街道分岐

しばし中山道を辿っていきます。


野洲川を渡ります。ここは左側に歩道がないので右の歩道を行く方がいいですよ。交通量はかなり多いですので気を付けて。


野洲川を渡ってすぐですが、車が多く進んでいく右カーブの道なりには行かずに真っ直ぐ進みます。


その先で行畑の商店街の入り口あたりでやや道なりに左へ曲がっていきます。いよいよ分岐点は目の前です。


行畑商店街を越えたあたりの交差点の向かい側に「背くらべ地蔵」があります。
このお地蔵さん鎌倉時代のものだそうで、昔は子供が大きくなる前に死んでしまうことも多くこのお地蔵さんくらいまで
大きくなれば大丈夫と子を持つ親は思ったそうです。
当時から中山道を通る旅人の無事を祈り続けるお地蔵さんです。

朝鮮人街道分岐~祇王


ややわかりにくいですが手前の居酒屋が目印。ここが朝鮮人街道と中山道の分岐です。(時代屋っていう店の名前がいいですよね)
左が朝鮮人街道、右が中山道となります。今はこの2つの道をに挟まれる形で「野洲小学校」が建っています。


野洲小学校の左側を真っ直ぐ進みます。


このあたりから「祇王井川」という小川が道の右側の住宅との間に流れています。
この先に祇王という地域があり「妓王寺」という小さなお寺があります。
妓王とは平家物語の白拍子の女性。
妓王は大変美しく平清盛の寵愛を一身に受けるのですが、当時水不足で苦しんでいたこの地域に水路を清盛に頼んで作ってもらったそうです。
その時の水路がこの祇王井川なんですね。
(平家物語も読んだことないのですけどね・・・)


ホントは朝鮮人街道はこの先も真っ直ぐ進みますが、この先でJRの線路で分断されています。
先にある陸橋で反対側にいくか、手前の踏切で渡るしかないのでfunazushi-maruはこの分岐で左を行きました。


かなり細い踏切ですので注意が必要です。自転車2台の行き違いはちょっと難しそう・・・


久野部の陸橋の下をくぐり抜け、再び線路沿いに出ます。


ちょうどこのあたりはJRの「野洲電車区」となっており、たくさんの電車が祇王井川の向こう側に見えます。

しばらく真っ直ぐ進むと川が枝分かれし、さらに道もいくつかに分かれているポイントに出ます。(マップの28番)

ここは一番右手に集落に向かって伸びる道を進みます。このあたりから少し旧街道の雰囲気が漂ってきます。
(旧街道ばかり走ってると旧街道の匂いがわかる?!)


▲遊林寺前より

祇王~仁保橋


JAおうみ富士祇王を過ぎて、祇王幼稚園の前に初めて「朝鮮人街道」の文字が…
ようやくこれでこの道が調べたとおりの道であることがハッキリしてホッとしました。


集落のはずれに常夜灯がありました。こういうのがあると旧街道らしさを感じますね。
このあとあちこちにこういった常夜灯が現れますが、そこに刻まれているもので「愛宕〇〇」などという文字が。
愛宕ときいて思い出すのは京都の愛宕山ですが、ここからは結構距離がありますからどういった意味のものなんでしょうね?


この先やや交通量の多い道と交差します。これをひたすら直進。


ここから広大な田んぼが広がり、その中を真っ直ぐ道が続いています。この道が200~300mほどの桜並木となっており、
おそらく4月の桜の季節は見ごたえがあるのではないでしょうか?


真っ直ぐ突き進んだ先の「高木交差点」をさらに真っ直ぐ集落の中へ。

集落を過ぎた先にこの日初めての「激坂」が現れた!!

日野川の堤防の上に出るための坂道です。気を抜いてポタリングムードでしたが、ちょっと勢いをつけて一気に駆け上がります。

仁保橋~小舟木


日野川 仁保橋を渡ると・・・


橋の左手に「十王町」の街並みが見えます。
ここを左折して堤防の坂を町のほうへ降りていき、


「米徳老舗」さんの前で右折。


またまた旧街道風情のある道が現れました。


国道477号線との交差点の角に真新しい「道標」が現れました。はっきりとした書体で「朝鮮通信使の通った道 仁保のまち」とあります。
街道の通る街の方々のこういった取り組みによって、道が完全に消えることなく保存されていくのは良いことですね。


少し行ったところにも道標がありました。


旧街道を走ると必ず一軒は見かける酒蔵。
ここにもありました。「志賀盛」という銘柄の今宿酒造店さんです。
そういえば東近江市の近江酒造さんにも「志賀盛」という銘柄があるのですが・・・関係があるのですかね?


一旦集落が途切れ、また次の集落に入りました。「田中江」という町です。
この集落の切れ目からも遠くに比良の山並みが綺麗に見えますよ。


善性寺の角にも道標が。これはやや古いものですが明治時代あたりのものでしょうか? 
手の形がわかりやすですよね。

小舟木~八幡へ

この先で県道2号線に合流

大きなカントリ―エレベータが見えます。このあたりが「小舟木」というところです。

右手に小舟木エコ村という新しい住宅街を見ながら消防署を越えてしばらくいくと「小舟木橋」が現れます。

これを渡って左折し小舟木の古い集落に入っていくといよいよ八幡の城下町が目の前。


ここにも町の入り口に朝鮮人街道の文字が・・・思った以上に街道の案内があることが嬉しい!


小舟木も古い町並みがしっかりと残っていて、やや道幅が広くその割に交通量は少ないので気持ちよく走れます。
こういった観光地化し過ぎてないくらいが歴史を感じられていいんだよなあ・・・。

と言っている間に、緩やかな左カーブの先で直角に右に曲がる角にでるところにでます。

ここからの道は朝鮮人街道という名ではなく「京街道」と呼ばれていて、ちょうどその区間が八幡の城下町にあたります。

角の左手には「願成就寺」があります。


このお寺は聖徳太子が近江に48寺を建立した際の最後に建てた寺だそうで、願いが叶ったということでこの名を付けたとのこと。
書いてお寺の境内に貼ると願いが成就する絵札が販売されてます。
この日はお寺のお札は売ってなかった・・・、願いすらさせてもらえず・・・。

日牟礼庵

ちょうどお昼時になったので、このあたりで昼食を摂ることに。
願成就寺からすぐのところに雰囲気のある蕎麦屋を発見!


「日牟礼庵」という蕎麦屋さん。


登録有形文化財指定の1800年代に建てられた回船問屋の建物を利用したお店はまさにこういった旧街道サイクリングにピッタリ!
江戸時代の風情を感じながらおそばを食べることができます。
11時30分くらいに入りましたが、すでに満席。ただまだ本格的に混む前だったのか5分程度の待ちで中に入れました。


障子の先には立派な中庭が・・・


ざる天丼セット(1600円くらいだったか・・・)をいただきました。
蕎麦はさっぱり、ダシはやや濃いめで私好み。天丼もサクサクでうまかったあ!

ちょっと前半で時間を使いすぎましたが、ここから安土、能登川、彦根とまだまだ続きます。
八幡市内は古い建物が上手に残されており、八幡堀や八幡城跡などはじめしっかり観光できる街。
もうすこしゆっくり見たいなあと思いつつ、今日のミッションはあくまでも「朝鮮人街道」。
まだ先もあるので急がないと・・・

(後半につづく)

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コメント

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