自転車で行く近江の城(7)野洲の城址~その2

本日のメインディッシュ!

前回に続いて『野洲市の城址』を巡るサイクリングのレポートをお届けします。

自転車で行く近江の城(6)野洲の城址~その1

前回までは「桜生城」や「夕日ヶ丘城」を訪問し、篠原の復活したお餅をゲット。国宝にも立ち寄るなどバラエティーに富んだコースを走りました。
後半はいよいよ本日のメインディッシュ、「小堤山城」へ向かいます。

小堤山城は野洲・栗太郡最大の山城と言われており、場所は三上山の北東、「滋賀県希望ヶ丘文化公園」からほど近い小山の上にあります。
今回は希望ヶ丘文化公園の敷地内から自転車で近くまで行き、そこから徒歩で城を目指します。

希望ヶ丘から伊勢道へ

小堤山城へはいくつかアクセス可能な道があるのですが、先日Uさんが下見に行ってみてきたところ、台風などの影響もあって倒木で通りにくくなっている道もあった様子。
今回は希望ヶ丘側から「伊勢道」という旧東海道への間道を通るルートをお勧めして下さいました。

ここでH口さんとはお別れ…H口さんはまたまた野洲のラーメンライドへ。(^^;)
UさんとHさん、そしてfunazushi-maruの3人はコンビニのオニギリを背にお城へ攻め込みます!


目指すはあの山!


まずは希望ヶ丘の奥へと進みます。


車のほとんど通らない気持ちの良い林道が続きます。


T字路が現れました。「見晴らしの道」へ進みます。


しばらく進み、未舗装路を入ると右手に「伊勢道」が現れます。
ここからは自転車では行けない道なので、皆さん靴をビンディングからスニーカーへ履き替え中。

「伊勢道」
この道は大篠原の人たちが、明治以前お伊勢参りの参道として、古城山裾より篠原山並みの一番低い峠を越え希望ヶ丘を横切り菩提寺、東海道へと達するよう利用された間道である。
(野洲市大篠原自治会。大篠原郷土史会)

 

とあります。東海道自体を「いせみち」と示す道標もあるくらいですから、いかに昔の人々にとってお伊勢参が重要だったかというのはわかりますが、こんな小さな間道にも伊勢道と付くぐらい、どこもかしこも「目指せ、お伊勢さん!」的な感じだったのでしょうね。大篠原は中山道が東山道と呼ばれていた頃は大きな宿場だったので、ここを起点に東海道へショートカットする道として重宝されたのだと思います。

 

城山

さて、自転車を置いて徒歩でまずは城山を目指します。

このあたりが家棟川の源流となっているようで、綺麗な水の池がありました。
さすがにマウンテンバイクでも厳しいルートですね。


途中二手に分かれますが、左側の尾根づたいを進みます。


わかりにくいところには親切にも赤や白い紐が木の枝に括られており、これを頼りに進むことができます。


すると、ちゃんと案内板が建てられてました。
方向間違ってませんね!


岩でゴツゴツした道も…

 

しばらく進むと「古城山城」らしき場所へ出ます。


どうもこのあたりのようですが、特にそれらしい遺構は見当たりません…

 

と思っていたら、進んできた尾根から一段降りた平らな場所に、何やら石を積み上げた人工物がありました。

ちょこっと見えている石垣っぽいものが名残のようです。


隣には案内板に書かれていた「桜本の池」と思われる水たまりも…

しかしこんな山の中にお城を作るなんて…ってつくづく思います。見張り台の機能から見晴らしの良さは必要条件であるのは理解できますが…

 


と思っていたらなかなか楽しそうな難所が!
ロープを伝って登らないといけないくらいの勾配です。
これを越えれば城山に登頂となります。

 


ふと見ると三上山のバランスの良い山体が見えました。このくらいの距離と高さで見る近江富士は初めてでなかなかの景色!

そして城山の頂上へ。

眼下に希望ヶ丘やその先の石部方面も見えます。
確かに東海道には近道かもしれないなぁなんて感じます。

反対側には竜王町あたりの街並み…
これだけ景色が良いと、お城巡りでなくても十分楽しめますね。

 

 

いよいよ小堤山城へ


さて、小堤山城へは城山から一段降りた場所に行くことになります。

城山山頂部をグルっと回るように道が配されており、
その先には郭らしき平らな場所が現れ、その場所からさらにもう一段降りた途端目に入ったのが・・・

 

 

 

 


誰の目にもはっきりわかる「THE・石垣!」といえる立派な石垣が現れました。スマホのカメラでは収まり切れないくらいの長さです。
こんな大して人目に触れないような場所で、ここまで見ごたえある人口建造物が残っているとは・・・山城の面白いところです。

これが主郭かと思いましたが、これは東の端にある郭でした。ちょうど見張り台のような役目の場所でしょうか?

郭は山の斜面側に築かれており、その郭をグルっと取り囲む形で石垣があります。
郭の基礎部分としての補強としてもあるのでしょうが、敵から見えるこの位置に立派な石垣を築いたのは、敵に頑強な要害であることを見せつける役目もあるのかもしれません。
この東端の郭には大きな堀切を横切っていく形になっています。敵の侵入時には郭の上からこの堀切に向けて攻撃したのでしょう。

 


そして、立派な石垣の郭に降りる前の上段の郭をグルッと回る形で堀切があり、右手にも一段高い郭址が見えてきます。谷状になったその間を抜けると・・・・

 

 

ありました!これが主郭と言われている場所です。
城山山頂部を背にした地形でかなりの広さがあります。

 

この主郭の周りにも石垣が残っています。
そしてこの主郭に向けて真っ直ぐ道が伸びてます。
おそらく城の正面側だと思われる登城道を登りきった先に主郭が正面で待ち構えるような造りです。

その登城道の左右には小さな郭が棚田のように段々になって配されており、さながら安土城の大手道を彷彿させるような雰囲気。
当時はさぞかし立派なお城だったのだろうなぁと感じます。


▲大手道?から主郭を望む

 

このあたりは先ほど通った古城山城含め「馬淵氏」が治めていた土地。しかしこの城は「永原氏」の城と伝えられています。
もともと永原氏は佐々木六角氏の重臣:馬淵氏の家臣団の一角であったのですが、応仁の乱の混乱の中次第に勢力を伸ばし、やがて馬淵氏を越える存在になっていきました。この城を築城したころは佐々木六角家中でも中心的な存在であったようです。この城を見れば相当な力があったことは十分に想像できます。
その後永原氏は主家を脅かすほどの存在になっていったようですが、織田信長の近江侵攻で主家の佐々木六角氏の力が衰えていく中で、主家同様に表舞台から消えていったとのこと。まさに「兵どもが夢のあと・・・」ですね。

 

おまけ&まとめ

そんな永原氏の名前がこの野洲市には残っており、というかそのまんま「永原」と言います。
ここには「永原御殿」という城址があるのです。


元は永原氏によって築城され、江戸時代には徳川将軍の旅の宿泊所として存在していました。
現在は竹藪になっており、私有地のため中には入れない状態。石垣の一部なども中には残っているらしいのですが、外側からは伺えません。

 

こんな場所も滋賀県教育委員会の「中近世城郭分布地図」に載っている城址なんです。

 

Uさんは普段こういったところをマウンテンバイクで散策しながらコーヒー飲んでほっこりしたりと、中々魅力的な城跡の楽しみ方をされています。
そんな話を聞きながらまたまた物欲が・・・・・・・マウンテンバイク欲しい・・・

 

でもカメラ買ったばかりなので当面は無理だな。

 

地図

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