ヤジキタ五街道の最終章スタート
全国の旧街道サイクリングファンの皆様こんにちは! フナズシマルです。
江戸期の五街道を自転車で走る・・・。7年前、私とY工場長は旧東海道を京都の三条大橋から東京の日本橋まで走り抜けました。その後1年おきに中山道、甲州道中と挑戦し、ついに最後の二つ「日光&奥州道中」に挑む日がやってきたのです。
・・・と、大袈裟に言うようなことでもすっかりなくなった気がします。
思えば東京単身赴任時に東京中を自転車で走りまくって楽しんでいた私。同僚から「そんなに自転車好きなら、自宅まで帰っちゃえば?」と言われ、あ〜そうか、行けんこともないよなあ・・・、と思うように。
何気にSNSで「東海道走ってみたいな・・・」なんて呟いてみたところ、「行きゃええやん!」と話に乗ってくれたのが会社の先輩だったY工場長。そこからこのY工場長とのヤジキタ五街道サイクリング旅が始まりました。
当時は自転車歴も浅く、500kmもの距離を自転車で行くこと自体が私にとってはトンデモないチャレンジでしたが、今となっては自転車乗りにとってさほど珍しいことでもないということがわかって・・・、つーか、まわりにはもっとトンデモないチャレンジをする人も普通にいてるので、五街道走破って言っても凄いとかそんなふうには思わなくなりました。
ただ、一人ではなく二人でチャレンジし続けてこれたことは、私にとってとても意義のあることだったと今は思うのです。
しかし、東海道スタートの時点では40代半ばだったヤジキタもすでに50オーバー・・・。
年々体力も脳力も衰えを感じ、お互い髪の毛の色や本数まで変わってしまいました。それ以外にも私が会社を退職して起業するなど、それぞれが歩む道も違ってきたこの7年。
そんな中でこの日を迎えられたこと。これはある種の奇跡かもしれません。
最初で最後の難関!? 初のバス輪行
さて、この最後の二つ、なかなかに色んな壁が立ちはだかるものです。
実は昨年にチャレンジする予定でしたが、私が直前に佐渡島に行って(金)ではなくコロナの(菌 ※正確にはウイルスですが)を貰ってきてしまい、自宅から出られなくなってしまい中止するハメになりました。
今回は1年延期してのリベンジなのです。
で、今年はというと、なんとY工場長が一週間前にコロナに感染。しかも台風7号が東京方面に向かって突き進んでくるという状況。
Y工場長のコロナは出発日には一週間経ってるとのことだったので、よほどの体調不良がなければ大丈夫か・・・。あと台風も日本橋ゴールの15日あたりに上陸しそうなので、行程そのものには影響がなさそう、ということで予定通り出発することに。
今回は初の夜行バス輪行です。
新幹線の特大荷物スペース付き座席って各車両に5席あります。当然ながらその席が全て埋まっているいる場合、5人で譲り合って使わなくてはなりません。特に混雑する時期に自転車のような超特大荷物は邪魔になってしまう確率が大。その点バスなら予約さえできれば確実に他のお客さんの邪魔にならずに持って行けるので、その点についてはバス輪行もありかなと。
利用したのは、ブルーライナーA便という高速バス。南草津〜大宮を約8時間で走り、事前に予約して追加料金を払えば自転車も積み込んでくれます。(バス輪行の説明ページ)私は滋賀県草津市に住んでるのですが、東京方面へ行く夜行バスが南草津駅から出発しているのを今回初めて知りました。
「株式会社ブルーストーク」という大阪の旅行会社が運営しており、大阪・兵庫・京都と東京方面(新宿、大宮、千葉など)を繋いでいます。
8月10日23時、ついに南草津に二人の男たちが集結。
「これがバスかあ・・・、わし夜行バス初めてだあ」
乗車の手続きを済ませると、自転車を座席下の荷物スペースへと入れるように指示されました。特に専用の固定具やスタンドなどが用意されるわけではありませんので、2台の自転車を輪行袋のまま重ねるように入れることになります。そんな扱いになることを許容できる人向けのサービスです。
車内は4列の普通のシート。座席ごとの仕切りカーテンなどもなく、トイレなども車内にはありません。まどは全てカーテンで覆われているので景色を楽しむこともできない状態です。
「これで8時間バスに乗り続けるのかあ・・・キツイなあ・・・。」とY工場長。
「ま、今回自転車で走る距離も短いですし、多少こんなのがあるほうが冒険っぽいですやん」と能天気に答える私。…Y工場長、本気で嫌そう。
私とY工場長、すでに職場も違うので普段から話す機会もあるわけではなく、この時が久々の再会。いろいろと話したいことはあるけれど、夜行バスはすぐに消灯。こうなると黙り込むしかありません。
そのまま2箇所程度のSAでの休憩を得て、朝7時に大宮へと到着しました。
結論から言うと、やはり夜行バスにええ年こいた親父乗るには厳しかった。まあわかっていたことではありますが、もう一回乗ることはないかなあ・・・。
東北新幹線で白河へ
大宮。
ここは中山道の宿場でもあった街。その昔、武蔵国一宮として氷川神社が創建され多くの人の信仰を集めたことから大宮という地名になった街です。
そう言えば、日本橋のここ滋賀でサイクルスポーツのSシシャチョーにお会いしたのもその時でした。ちょっと懐かしい。
大宮からは東北新幹線に乗って一路「新白河駅」まで移動。約1時間ほどで到着する予定。
夜行バスの到着が渋滞などで前後することを見越して、新幹線は自由席乗車券しか買っていないので、新白河まではデッキスペースに立ったまま過ごすことに。ちょうどこの区間を今から自転車で折り返すことになるのです。新幹線だとたったの1時間…。
午前9時、新白河に到着。
本日の行程は白河宿〜大田原宿までの約40km。この時間の出発なら十分余裕ありです。
Y工場長、実は前回からまったく自転車乗っていないと言います。リハビリ的にもこのくらいがいいかも。(病み上がりだし・・・)
しかしY工場長、意外と手際よく輪行バッグから出した自転車を組み立ててました。
比較的新しくできた新幹線の駅って、街の中心から少し離れたところにできていることが多い。とくに「新◯◯駅」ってやつ。新白河駅も古い城下町の中心からは3kmほど離れた場所にあります。まずは東北本線・白河駅のある街の白河市の中心へ向かうことにしました。
JR東北本線の白河駅は木造でレトロな雰囲気のある駅舎でした。やはりこちらの方が街道旅のスタートには相応しい感じ。
改めて白川宿本陣跡を探して現在は国道となっている奥州街道へまずはアクセスしてみました。
すると、
だるまさんがじいーっとこっちを見てきます。
「白河だるま? ここってだるまが名産なんでしょうかね?」
「ちょっと入ってみようや」とY工場長の興味に合った様子。
よく見ると向かい側にもダルマのお店。まだ白河駅を出て1kmも走ってないけど、時間はたっぷりあるのでお店に入ることに。
こちらは「佐川だるま製造所」さん。
お店の方いわく、白河だるまは江戸時代に時の白河城主が城下の繁栄を願ってだるま市を行ったのが始まりで、現在は向かいのお店と合わせて二軒で作っているそうです。
だるまの型は焼き物で作られており、これに和紙を重ねて貼り付けながら形にしていくそうです。和紙自体もこちらのお店でコウゾから漉いているらしく、材料の和紙も見せてくださいました。
ちなみにだるまは大きいほうから「い、ろ、は」の順に「る」まで規格サイズがあるんです。それよりもさらに小さいミニサイズのダルマ(220円)をお土産に買って帰ることにしました。まだスタートしたばっかですけどね。
街道旅といえば・・・史跡? やっぱりご当地グルメ?
白河宿に入るやいなや、「冷やし足湯(無料)」って、なんともこの時期にはありがたい誘惑がありました。冷たい湧水を利用して用意されています。とはいえまだ1.5kmしか走ってないので休んでいる場合ではない。
その先に本陣跡の案内版が建てられた場所。現在は印刷所になっているようです。本陣跡が印刷所とは・・・。つい前職のクセでどんな印刷所なのか気になってしまいます。
走り始めると、街道沿いらしい風景が目に飛び込んできました。古い石造りの道標や馬頭観音などの石碑です。
「あ〜道標とか、高札場とかかあ・・・。昔は一々止まって何がおもろいんだって思ってたけど、久々にみるとなつかしいなあ」とY工場長。
とまあ、街道旅の雰囲気を思い出したところでお腹も減ってきました。ふと街道沿いに一見なんの変哲もない地元の老舗っぽいお店を発見。
白河に入って数軒手打ちらーめんと書かれた店を見かけたけど、ここもその白河らーめんのお店らしい。開店前なのにすでに数人が並んでいました。
「たぶんここ美味しいと思いますよ。お昼にはちょっと早いけど入ってみましょうか?」とY工場長に聞いてみたところ行くとのことで、その列に並んでみました。開店の11時まであと数分。初めての白河ラーメン、楽しみです。
ここに来る途中、実はどんな麺が好きか?なんてことを喋りながら走ってきました。
Y工場長はちぢれ麺はそんなに好きじゃないとのこと。そこへ今回出会った白河ラーメンのお店。なんと手打ちのちぢれ麺。私的にはこのやさしい和風の出汁が聞いた醤油スープに弾力のあるちぢれ麺の組み合わせはベストです。が、Y工場長にはちょっとパンチが足らなかったようで…。
「わしはもうちっとコッテリしたやつが好きだわ」と。
Y工場長、身も蓋もないですから。
五街道で一番快適かも!?
白河の次は「白坂宿」。それを過ぎると福島県とは早くもお別れ。
ところどころで旧道があるにはありますが、芦野宿のあたりまではほぼ国道が奥州街道となっています。ただ交通量がそれほど多くないので走りにくさは感じません。むしろ走りやすい!
その国道から外れて旧道に入ると、別れたところに石の瓢箪がありました。
そこからすぐに水が湧き出ているところが。「初花清水」という湧き水のようです。飲めるかどうかわからなかったので、ひとまず持ってきたタオルを濡らして首に巻きました。関西ほどではないものの30度を超す気温。めっちゃ冷たくて気持ちいい!
ふと、今までならこういった史跡に全く興味を示さないY工場長。珍しく「初花清水」の案内板をじーっと眺めています。
改めて案内板の説明を読むと、ここは寄居大久保といい、歌舞伎「箱根霊験記……」で知られる主人公の勝五郎とその妻初花が名主大島家の世話を受け過ごした場所なんだとか。
初花清水は、美人であった初花が毎朝顔を洗ったといわれる清水で、足を悪くして動けなかった夫の勝五郎が仇討を祈願し岩に瓢箪の図を彫ったのが瓢石(ふくべいし)と呼ぶとのこと。さきほどの瓢箪型の石は、その瓢石の場所を示しているものだったようです。
「おい、説明なんて書いてあったんだ?」とY工場長。
読んでなかったのか…。
ところどころで国道から別れて旧道になると、ますます交通量が少ない。全然車に出会わないのでとても快適です。
そういえば白河出てからも登りらしい登りはなく、むしろジワーッと下っています。そんなに漕がなくてもスピードに乗って走れるのでとても気持ちがいい道です。これまでの五街道の中でも最も快適な街道かもしれない。ちなみにルートは予めRideWithGPSで引いているので高低差なども把握済み。日光方面に行く際に多少登りますが、奥州街道に関してはこのまま日本橋まで少しずつ下っていくのです。
佐川だるま製造所のおかみさんが、「自転車のお客さん、いつもここまで来るのに何故かスピードが思ったように出ないと仰るんです。」と言ってましたが、きっとそれは南から白河へ来る道が緩やかに登っているからなんだと思いました。我らはその逆を走っているから楽なんでしょうね。
栃木県は足尾山地や八溝山地といった山地の間に関東平野から続く平野が広がっており、この平野を鬼怒川や思川といった大きな河川が北から南へと流れています。鬼怒川はやがて利根川に合流し千葉県から太平洋へと注がれます。奥州道中は、この鬼怒川や利根川の流れに並行する形で伸びており、つまりは日本橋まで下り基調となっているのです。
この先の喜連川(きつれがわ)あたりには丘陵地が広がっていますが、それほど標高も高くないようなので今回の街道はどうやら楽勝な感じ。
そんなこともあってか、Y工場長も久々の自転車にも関わらず余裕があるようです。
「こんなところに花があるぞ〜。きれいだなあ。あれはハスだ。」なんて、それこそ以前なら「花なんてどこでもあるだろうが…」って言ってこれっぽっちも興味を示さなかった癖に…、一体今回はどうしたのでしょうか? 五街道最後だからって感傷に耽るような人ではないはずだけど。
寄り道こそ旅の醍醐味
白河を出発してから20kmほどで、芦野宿へと入りました。
白坂宿もそうでしたが、芦野も街の案内標識や街頭の看板に宿場町の名前が残るものの、もはや宿場町であった往時の賑やかさはありません。世の中の交通手段等の移り変わりとともに街の中心も移動し、地方の商店街のように寂れていくところが多くあります。
ただ今の所、二つの宿場町はかつてそうであったことを捨ててはいないようです。よく見ると地域の人たちによって様々な形で宿場町としての歴史を語り継ごうという努力があちこちにあります。
芦野宿には町の南端に、これは大仏?と思ってしまうほどの大きな石造の石仏がありました。河原町地蔵尊というお地蔵さんのようです。さきほどの瓢箪型の道標など含め、心なしか今回スタートしてから馬頭観音などの石仏をたくさん見かけるような気がします。
街道沿いに並ぶ家の門柱もどこも同じような角柱型の石造。「ふ〜ん…」と思いつつ先に進みます。
太平洋上には台風7号が迫ってはいるものの、夏らしい空が広がっています。
このあたりの畑にはかなり背の高いトウモロコシが植っていて、さながら沖縄のサトウキビ畑のようです。
「あれは人が食べるためのもんじゃなくて、家畜の餌用のトウモロコシだ。」
さすが農業には詳しすぎるY工場長。たしかにトウモロコシのようですが身が付いていません。Y工場長、最近は日本ミツバチの養蜂で蜂蜜を自家製で作るなど、もはや農家の人です。
越堀宿と鍋掛宿は那珂川を挟んで両岸にあります。
那珂川は那須御用邸がある場所として有名な那須高原より流れ出て、茨城県のひたちなか市から太平洋へと注ぐ川です。
これまでの街道でもそうであったように、江戸時代の川には防衛上の観点から橋がかけられてないことが多く、渡し船や人の肩車などに乗って、お金を払って渡っていたそうです。当然水量が増えたら渡れないこともあり足止めを食うことも。そのため川の両岸に宿場が形成されていったのです。ここもまさにそういった理由なのでしょう。
宿場の名残を探して松尾芭蕉の歌碑などがある公園を見ていたら、
「おーい、かき氷食おうや!」とY工場長。
公園の隣には猫好きが集まりそうなカフェ・Café KeyTail NASUありました。すでに中でくつろいでいるY工場長がいます。午後の最も暑い時間帯なので、そろそろ休憩でもと思っていたタイミング。
「いいっすね〜、かき氷!」と、私も待ってましたとばかりにお店に入りました。自家製レモンシロップのかき氷を食べつつ、店員さんとしばし世間話。偶然入ったお店での出会い、これこそ旅の醍醐味です。
「私は娘の作ったお菓子を売っているだけで…。」と店員さん。聞けば、このお店のパティシエが娘さんで、店員さんはそのお母様なのだとか。「那須のほうでテナントで入っていたのだけど、地元でお店を作ることになって。内装も家族で手作りしたんですよ。」と、ちょっと恥ずかしそうに、でもとても嬉しそう話す店員さん。知らない土地で見ず知らず同士がかわすこんな会話、いいですね。
初日からいろんな出会いが続く今回の旅。なんかすごく平穏すぎんのとちゃう?と思うくらい。波乱含みの旅を期待していただいていたらスミマセン…。
カフェからわずか2kmほど進んだところで、Y工場長が「ハチミツの直売所があるって書いてるやん。いってみるべ!」と仰る。全然進まんやん…。
前述したように最近養蜂を実践しているだけあって、これは立ち寄るしかないな、と素直に従います。ま、さっきのカフェみたいに偶然の出会いに期待する部分も多少はありましたが…。
Y工場長、店員さん捕まえて商品について根掘り葉掘り聞きまくり、プロの養蜂家でもあるかのような質問攻め。いっそのことプロになればいいのに。
本日の宿泊場所「大田原宿」へ
難所らしい難所もなく、街道情緒のある景観などの見どころもあまり無いので、街道サイクリングの写真的には撮れ高は多くないのかもしれない。でも、とても穏やかで楽しい旅を初日から味わえています。Y工場長の野生の感による寄り道も、まさに久々に本領発揮という感じ。
本日の宿泊地である「大田原宿」までやってきました。
先ほどから気になっていた様々な石造のものの中で、特に地元の関西では見かねないものを発見。塀などで使われそうな石の建材で作られた倉庫が現れました。古いのか新しいのかもよくわからない感じ。関西だと古い倉庫は木造で壁を漆喰で塗られた白壁のものが多いけど…。ここまでの道沿いでも同じ様な作りの蔵のある家を見かけて、おやっと思いながら走ってきたところ。このあたりには独特の石造の文化がある様子です。
「金燈籠」という大きな交差点の角には、まさに金属製の燈篭がありました。元は文政2年に旅の安全を願って建てられたものだそうで、現在の燈籠は昭和54年に復元されたものです。
ちょうどこのあたりが大田原宿の中心。
そこからほど近い場所に本日のホテル【パインズ温泉ホテル大田原】があります。
パインズ温泉ホテル大田原はスポーツクラブに併設されている宿で、宿泊客は温泉は無料で、プールやジムは割引価格にて利用することができます。
今回の行程では宿泊施設はほぼビジネスホテル系かカプセル系にしてありました。久々ということもあり、チェックインが遅くなっても迷惑かけないようにとの理由です。
ここは一応カプセルではなく普通の部屋ではありましたが晩御飯は付けていません。ということで、それぞれ温泉入って汗を流したら外に食べに行くことにしました。
ホテル周辺は一応、大田原市の繁華街にあたるエリアっぽいのですが、あまり一般的な居酒屋がない感じ。近くで美味しいというお店も先日テレビで紹介されてから予約が取れない店になってしまった様子で…。
しかたなくちょっと離れた場所まで歩いてみることにしました。
やや高齢のお姉様がやっている大衆居酒屋と書かれたお店に入ってとりあえず一杯。でもY工場長、小さい声で「この店、はよ出よ。冷凍食品ばっか食べさせられるぞ…」と。まあたしかにそうだし、たいして安くも美味しくもなかったので、そうすることにしました。
で、お口直しにもう一軒と探していたところ、焼きそばに自信ありという感じに焼きそば推しの中華料理店を発見! 入ってみると、「大多笑(おおたわら)ギョウザ」なる地元名物らしきものも…。
ひとまず、その二つを頼んでみることにしました。
しかし、これが運命の分かれ目だったのです…。
【続く】
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