近江を愛した松尾芭蕉~俳聖が眠る「義仲寺」を訪ねて

芭蕉の遺言

幻住庵を降り、再び唐橋前まで戻ります。
旧東海道はここから唐橋を渡ると江戸に向けて伸びていきます。次の宿場町は草津。
そして直角に曲がって浜大津方面へ行くとその終点の京都へ。


▲旧東海道

「義仲寺」は旧東海道をここから浜大津方面に自転車で10分程進んだところにあるお寺。
その名が示すように、平安時代末期の源氏の武将「木曾義仲」(源義仲)の墓を祀っています。
そして同じくこの寺に俳聖 松尾芭蕉が眠っているのです。

彼は「骸は木曽塚に送るべし」と遺言しており、大阪で亡くなったその日のうちに、この義仲寺に運ばれたとのことです。
では芭蕉がそんなにも敬愛した木曾義仲とはどのような人物だったのか、ちょっと気になったので調べてみました。

木曽義仲とは

遡ること1159年、「平治の乱」で平清盛が源義朝(頼朝・義経の父)を破って以来、平家が「平氏にあらずんば、ひとにあらず」というくらい
世の中を席巻し権勢を思うがままにしていました。
これに対し後白河法皇は力を付けすぎた平氏の存在が面白くなく、あの手この手でその力を削ごうとします。
が、これに失敗し幽閉されてしまうのです。
この流れを変えたのが後白河法皇の次男「以仁王」。
彼の呼びかけをきっかけとして全国の源氏勢力を平氏打倒に駆り立てました。
この時に動いたのが伊豆にいた源頼朝であり、義経達。それに信濃で挙兵した木曽義仲なのです。

義仲は北陸を中心に勢力を広げ、「倶利伽羅峠の戦い」では味方5万に対し10万の平氏勢力を退けることに成功。
結果、平氏の力を大きく削ぎ落し源平合戦といわれる内乱の趨勢を決める勝利を義仲は得たのでした。

義仲の軍団は勢いに乗って京の都へ入ります。
この時点では京から平家を追い払ったヒーローとして「朝日将軍」の称号まで賜っています。
しかしこの頃は作物の不作もあり、兵糧が足りませんでした。
そのような中、木曽軍の兵達は都で狼藉を繰り返し人々の不評を買います。
仕方ないですよね。だって食べ物がない場所に沢山人が押し寄せればもっと足りなくなりますから。
しかし義仲はこれらの取り締まりを要請されるものの上手く押さえ込むことが出来ず、都での立場が悪くなっていきました。
都の人々からは平氏の頃よりも酷いとも言われるくらいに。
また義仲は田舎出身で貴族の作法にも疎く、粗野に思われたことも彼の評価をさらに悪いものにしていました。

このような状況の中ついに後白河法皇が動きます。
天皇は義仲に平氏追討の兵を挙げさせて京から退去させる一方で、実は東国で勢力を拡大していた頼朝にも密か声をかけ義仲の追討を命じていたのです。
(やはりこの後白河法皇が一番の大だぬきですよね)
後白河法皇に裏切られた形の木曽義仲はすぐさま京に戻り法王を拘束します。
しかしこの時、源頼朝が派兵した源義経・範頼軍6万が迫っていました。

すでに求心力も失いつつあった義仲の軍はわずか7000。「宇治川の合戦」では義経・範頼軍に圧倒されていきます。
琵琶湖畔まで追い詰められた時にはわずか300騎でした。
最後は近江の国「粟津」の地で馬がぬかるみに脚を取られ、その隙を狙われて討ち死にしました・・・。(享年31歳)

義仲はどこかハチャメチャで戦に滅法強く、それまでの貴族化してちゃらちゃらした武家の棟梁である平家に、
木曽の山奥から立ち向かっていった野性味あふれる漢、それが木曽義仲のイメージだったのでしょうか。
それが都のドロドロの権力の渦に巻き込まれ、上手く立ち回ることもできずに追いつめられる悲運のヒーローとなっていく…
どこか巨大な悪に立ち向かって華々しく散るヒーロー漫画の主人公ような存在に思えてきました。
芭蕉がそんなストレートで明快な漫画のような木曾義仲の物語に魅入られたのかと思うと、ちょっと面白いですね。

義仲寺境内

前置きがかなり長くなってしましました…(^^;)
ということで、木曾義仲公の隣に今も眠っている松尾芭蕉に会いに行って来ました。

木曾義仲が討ち死にしたあたりで、地元の民が憐れんで塚を作っていました。
後に一人の美目麗しい尼僧がやってきてその場所に草庵を結び弔いはじめました。この女性、名を問うても「われは名も無き女性」と
答えるばかり。そしてこの庵は後に「無名庵」と呼ばれるようになっていきます。
実はこの人が木曾義仲の側室「巴御前」と言われる方。
たいへん長生きされたそうで、これにあやかってお地蔵様が義仲寺の境内の外に祀られています。

入って右手の寺務所にて拝観料を払って境内の説明をしていただきます。
境内には無名庵をはじめ、いくつかの建物と木曽義仲や芭蕉達のお墓、それに20もの句碑があります。

入ってすぐのところには芭蕉の直筆の句碑が。


「行春をあふみ(おうみ)の人とおしみける」
詠われており、芭蕉がいかに近江の人々との親交が深かったたかを思わせる一句です。
実際に芭蕉の門人36俳仙のうち12人が近江であったようで、ここ義仲寺境内にある無名庵でたくさんの門人に囲まれて過ごしたのでしょう。


大津の街中にありながら、ここには世間から隔絶されたかのようなしっとりとした空気が流れます。

ちょうど境内の真ん中あたりに木曽義仲の墓はありました。

芭蕉が無名庵に滞在していたころに伊勢の俳人「又玄」(ゆうげん)が芭蕉を訪ね詠んだ句に、
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と言う有名なものがあります。

背中あわせではないですが、隣り合わせのところにその芭蕉の墓がありました。

遺言通り憧れのヒーロー木曾義仲の隣に葬られ、また気に入っていた近江の地で、多くの門人と過ごした日々の思い出とともにいつまでもここでいるなんて素敵デスね。
ここには他に巴御前の墓や、先日の「幻住庵」を芭蕉に提供した門人「菅沼曲翠」の墓もあります。
大好きなものや人に囲まれて眠る芭蕉、人間として羨ましい限りです。

さて奥へ入ると、

朝日堂がありました。義仲寺は正式には「朝日山 義仲寺」と言い、こちらが本堂になります。
この朝日とは「朝日将軍」から取ったのでしょうね。ご本尊は聖観世音菩薩。
木曽義仲・義高父子の立像を厨子に納めます。

さらに奥へ進みます。
「翁堂」という庵があります。

こちらには芭蕉翁の座像が安置される他、天井には伊藤若冲の「四季花卉の図」がありました。

他にも、蝶夢法師が芭蕉の俳書を収集上梓した「粟津文庫」、史料観などが境内にはあります。

史料観には芭蕉が実際に使っていたと言われる杖が展示されていました。
こういったものを見ると何故か芭蕉が身近に感じます。

歴史は繋がっている

 嫁に教えられて幻住庵に行ってみようというところから芭蕉つながりで義仲寺に来ましたが、
これまで名前だけは知ってるものの、詳しくはよく知らなかった「松尾芭蕉」や「木曽義仲」といった人物について少しばかり勉強するキッカケになりました。
木曽義仲については、学生時代以来になる源平合戦の流れなどにもブログの執筆を通じて調べることとなりましたが、教科書で習う表面的な流れや時代ごとにカリキュラム化された教え方では、到底わからない人間ドラマがそこにはありました。
時を超えて一人の俳人がそんなドラマに魅了され、そして、今私はその芭蕉を通じてそのドラマを知る。
(おいおい、歴史上の有名人とさも繋がってるように書くなよ!って怒られそう…)

街中にあるちょっとした史跡から何かに興味を持つことができたら、それはある意味、歴史の「パンドラの箱」。
開けたが最後、その先につながっている様々なキーワードにどんどん引きずり込まれていくでしょう。

芭蕉は生涯で980もの俳句を作っているそうなのですが、そのうちの1割近くをこの近江の地で詠んでいます。
そんな芭蕉の句碑はこの大津を中心に滋賀県にはたくさんあります。

芭蕉の辞世の句 「旅に病で夢は枯野をかけ巡る」。

私が俳句の世界に入るのはまだちょっと早いかもしれませんが、芭蕉の足跡を追いかけながら自転車で近江を駆け巡り、歴史に引きずり込まれる日々はしばらく続きそうです。

義仲寺の地図

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