ヤジキタ2018中山道自転車走破(軽井沢~芦田宿)

軽井沢を越えて

GWで賑わうリゾート地「軽井沢」。喧騒をさけるようにペダルを回し先を目指す。

軽井沢のラウンドアバウト。ラウンドアバウトとは信号のない環状の交差点のことで、ブラタモリでも紹介されていたのを思い出す。軽井沢の街はここから放射状に道が伸びているんだよなあ。

 

元々軽井沢は浅間山の噴火によってできた溶岩台地である。昔は荒涼とした場所であったと思われるが、そういった台地によって疎らに木々が生えることで、どこか日本的でない景観を生み出し外国人の目に止まったのだそう。

国道の先には雄大な浅間山が裾野を広げる。東海道で富士山を見たときの感動とも似てはいるものの、こちらは周りの景色がさらに良い。

 

自転車で走って気持ちの良い道が続く。「沓掛宿」手前の川沿いの道。

 

中軽井沢から先の借宿という地名のあたりに、軽井沢に入ってからようやく中山道らしい建物を発見! 「黄壁 布屋」と書かれた説明版があった。布屋という屋号ながら米問屋だったらしい。

 

日本ロマンチック街道と呼ばれる国道18号線を蛇行する形で中山道が走る。軽井沢の街から離れるにしたがって、徐々に旧街道らしさが増えてきた。「追分宿」には郷土資料館や、

中山道69次資料館などがあった。大きな別荘地や清々しい林の道が続く中に、こういった施設が点在する。しかも道は下り基調。木々のおかげで日差しも適度にカットされ涼しい。こんな道ばかりならホントに快適なサイクリングだ。

 

「御影用水」という水路(正式には千ヶ滝湯川用水温水路という)がある場所に着いた。水路脇には八重桜が満開となっていた。思わず足を止める。

この用水は江戸時代に浅間山の水を田畑に引くために作られたが、水温が低く稲作に適さないため、この温水路によって太陽光で水温を上げてから下流に流すという目的で作られたものだそうだ。

軽井沢らしい景色が続くのはここまでで、中山道はロマンチック街道から離れて洋風から和風の景色へと移っていく。

 

 

小田井宿~岩村田宿

ここまで浅間山を横目に見る形で走ってきたが、このあたりから背中側へ回り込んでいた。

「小田井宿」は小さな宿場であるが皇女和宮も泊ったらしい。

下の問屋跡は江戸時代の門が残されていた。とは言え、観光地化されておらず生活感のある風景である。

しかし中山道沿いの集落はどこも街並みが綺麗である。それぞれ庭先の花や植栽がしっかりと手入れされ目を癒してくれる。群馬県あたりから台形のような縦に長い植栽がいたるところにあるが、この地方独特のものなのだろうか・・・。

 

 

長野県らしく、道沿いにはいくつかリンゴ園もあった。振り返ると浅間山が離れつつある。リンゴの花と浅間山のコンビネーションを写真に収めたかったが、いい構図で撮れず。長野の雄大な景色の雰囲気だけでも伝わるだろうか。

 

「岩村田宿」のあった岩村田の街に入った。昔はこの地方の経済の中心地だったようだが、現在はやや寂れた雰囲気の街だ。北陸新幹線もここより離れた佐久平に駅があるので、現在の中心はそちらへ移っているのだろう。いつの世もインフラによって人の流れが決まり、それによて栄枯盛衰が表れる。

 

塩名田宿~八幡宿

浅間山がすっかり遠くなってしまった。

岩村田から塩名田宿へ向かう途中、田植え前の田んぼには水を貼る準備がされていた。こういう風景を見るとなぜかホッとする。子供のころからこういった景色の中で駆け回っていたからだろうか・・・。

 

山の稜線(八ヶ岳?)の向こう側に綺麗な円錐状の山が見える。Y工場長が「あれ富士山じゃねえか?」と言った。たしかにやや先が白い見覚えのある形だ。方向的にも富士山が見えても不思議ではない。

 

「塩名田宿」へ到着。この宿場は千曲川の手前にあり、いわゆる川渡しのための宿場である。

問屋本陣には宿場の資料が多数保存されているそうだ。

 

千曲川を越えるとすぐに「八幡宿」がある。

この地名の元になった「八幡神社」は859年の創建という大変歴史ある神社で、国の重要文化財でもある。

 

 

望月宿~芦田宿

碓氷峠を越えてから下り基調であった道が、和田峠を控えて徐々に登り基調に変わり始めていた。車では何も感じないだろうが、自転車ではそういった起伏の変化を全身で感じる。アップダウンが増えるにつれ、山が近いことを意識せざるを得ない。

国道からの分かれ道には「望月宿」への案内がされていてわかりやすい。しかしどう見てもその先は坂だ。今晩の宿泊は「芦田宿」。もうあと一息であるが、日もかげり始めているのでノンビリもしていられない状況。山の中で日が暮れるのは避けたい。

 

道の凸凹が示すように結構な勾配だ。

と思ったら、やはり「瓜生坂」という名前のついた坂であった。

ここまで眺めの良い平坦ばかりだったので、久々の坂道に足が重い・・・そういえば今日は朝から碓氷峠を越えて来たのだった。どうりで脚が回らないはずだ。

今回の旅では一里塚で止まることなんてなかったが、ちょっと休憩して足を休める。今日のゴールもあと少しだから無理せず行く。

 

坂を登った先に「望月宿」があった。

今晩の宿泊は芦田宿で昔から続く旅籠に泊ることにしていたが、ここにも旅籠の雰囲気を残した宿があった。「山城屋」といい、やはり昔から続く旅籠である。

望月の地名の由来は、このあたりに平安時代の官営牧場「望月牧(もちづきのまき)」があり、朝廷に馬を献上していた場所から来ている。今は牧場といった雰囲気はなさそうだ。

 

芦田宿まであと一息なのに、道はどんどん険しくなってくる。

気が滅入るような細くてキツイ坂道・・・。もう少し頑張らねば。

 

頑張って登った細道の先に、急に大変趣のある集落が現れた。

間の宿「茂田井」である。

道が細いため主要道が迂回して建設されることになり、街並みが残されることになったのだ。今も酒蔵が営まれている。

 

しかしいつまでも中山道は甘くない。集落の先にはいやなものが見えた。坂だ。しかも結構急な・・・。 まさに飴と鞭、陰と陽、天使と悪魔である。

 

この坂も名前付きの坂だ。「石割坂」と言う。別に私は坂の思い出を胸に刻むつもりはないが、昔の人にとっては名付けたくなるほど辛さが身に染みる場所だったのだろう。

ここにも身に染みている人がいた・・・。

 

 

石割坂を越えてすぐに本日のゴール「芦田宿」に到着。

芦田宿はこの先の「笠取峠」や「和田峠」といった難所を控えた場所にあり、今なお旧宿場町の雰囲気を色濃く残している。町全体が坂の途中なのか、本陣も斜面に建てられているのがわかる。

 

旅籠に泊る! 金丸土屋旅館

この中山道の旅でどうしても実現したかったこと。それは旅籠に泊るということ!

東海道とは違って中山道には昔から続く旅籠が数多く残っている。ここ芦田宿の「金丸土屋旅館」もそんな旅籠の一つ。中山道名物の出桁造りの建物は200年以上の歴史を誇るものだ。

私が旧街道サイクリングの影響を多分に受けたショップのオーナーI氏が、以前ブログで紹介されていたのを見て予約しておいたのだ。ネットの宿泊予約サイトには出てこないため、よっぽど街道好きでもない限り知ることはないだろう。

 

入ると旅館の御主人が暖かく向かい入れて下さった。

客は我々だけの様子。自転車も土間のところに置かせてもらった。

廊下や襖など大変古いもので、まるで江戸時代の史跡にそのまま上がらせてもらっているかのよう。

まだまだこのあたりは朝晩は肌寒いらしく、ファンヒーターが置いてある。部屋は8畳間を二つ分使わせていただけた。

縁側からは中庭が見え、風情がある。

散々汗をかきまくって到着したので、さっそくお風呂をいただくことに。ちなみにお風呂やトイレのある場所は新築されており最新の広々したユニットバスであった。これはこれで清潔感があって良い。

 

お風呂を上がって、ご飯の準備ができたとのことで食堂へ。

ご主人の心づくしの料理とビールを頂く。中山道らしい山と風景と激坂をしっかり味わった一日であった。なんだかんだ毎日飲んでいるが今日のビールは格別である。

今晩の料理の中に何やら奇妙なものが・・・

への字に折れ曲がった脚・・・子供の頃どこかで見かけたようなその物体。

 

「イナゴ」だ!

 

あとでわかったが、長野県は昆虫食文化のメッカで普通にスーパーでもイナゴの佃煮は売っているらしい。見た目だけのインパクトで言えば滋賀の鮒ずしを上回っている!

私は生まれて初めてイナゴ・・・いや昆虫を食べることになったが、これが絶品‼

小エビのような歯ごたえというか小エビよりもカリっとしている分、見た目以上に食べやすい。甘辛い味付けもクセになる。これはお酒のアテにもピッタリだ。

今なら売っていたらきっと買うだろう。それくらい気に入った。

 

イナゴにスタミナ注入してもらったので、明日からの峠越えも何とか乗り切らねば。

 

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