旧街道へ輪行で行く
滋賀の旧街道を自転車で巡り、紹介するということを主たる目的とする当ブログ。
ここまで紹介できたのは、中山道、北国海道、朝鮮人街道、御代参街道、志那街道と、自宅からアクセスしやすい街道ばかり…。(ちなみに東海道は当ブログの前身にて紹介してますが、現ブログ内にはないので、こちらも改めて行っとかないと。)
言い訳になっちゃいますが、スタート地点が遠いとそこまで自走するだけで半日費やすことになるので、つい後回しにしちゃうんですよね。
そんな後回しにしてた街道の中で、一番行きたかったのが「北国脇往還」。
今回は自走…は諦め、輪行で行ってきました! 今回みたいに手軽な近距離輪行の場合は「モンベル コンパクトリンコウバッグ」が軽くて小さく、収納も簡単なので超プッシュです!
天下分け目の北国脇往還ライド、出発!
まずは輪行で米原へ。乗り換えて関ケ原まで行けたのですが、乗り継ぎに失敗し次の電車まで時間が空いてしまうことに…。まあいいかと、米原からは自走でスタートの「関ケ原」を目指すことにしました。
JR東海道線・関ヶ原駅の滋賀県側手前に十六銀行があります。その建物の横の道が北国脇往還のスタート地点。
進行方向正面を向くと八幡神社が見えます。
関ケ原の電柱には関ケ原合戦場の豆知識が書かれているんですね。おもわず1本ずつ読みたくなってしまいますが、米原からここに来るまでに寄り道しすぎで、すでにお昼…。
せっかく輪行したのに余裕なしとは。
マップに注目!元は真っ直ぐだけど、鉄道によって旧街道が切れてしまったパターン出現です。
現在の道は八幡神社の裏手に回り込み、鉄道の陸橋を越えます。元は街道の正面だったであろう場所に「東首塚」がありました。
ここは関ケ原の合戦で戦死した武士たちが埋葬されているところです。まさに合戦は街道で起きていたッ!って感じられます。というのは、東海道や中山道を走ると必ずと言っていいほど合戦場跡に遭遇するのです。普段、街道は旅の往来に利用されていましたが、いざ戦となると戦略上重要な行軍ルートとなっていたのです。当たり前と言えば当たり前なのですが…。
天下分け目の関ケ原の合戦は、中山道と北国脇往還が交わる交通の要所で戦が起きているのですね。ここから先、北国脇往還は関ケ原合戦場跡の真っただ中を通り抜けていきます。
良く見ると、電柱の豆知識には「北国街道」とあります。
北国街道はどうも定義がややこしい。中山道・鳥居本宿から木之本へと続く道がいわゆる北国街道ですが、ここ関ケ原同じく木之本へ向かう脇往還も北国街道なんですね。西近江路も北国海道と書いたり北国街道と書くものがあったりしますし、どうやら北国(北陸方面)へ行く道はどれも北国街道となるのでしょうか? このあたりの人々にとっては、脇往還(脇街道)ではなく北国への主要街道だったでしょうから、北国街道と呼ぶ方が一般的だったのでしょうね。
真っ直ぐ進むと広場のような場所が現れます。「徳川家康最後陣地跡」です。
合戦に勝利した徳川家康が、ここで首実検(討ち取った諸将の首を確認する作業)を行った場所。
戦に敗れた石田三成を含む西軍諸将は北国脇往還を敗走しましたが、家康はこの場所からすぐさま三成追撃を命じたのですね。
家康最後陣地の先で北国脇往還は国道365と交差し、集落の中へ細道となって続きます。この付近は関ケ原観光に来ている歩行者も多いので注意が必要です。
細道の先に「島津義弘陣跡」がありました。
島津軍と言えば「島津の退き口」と言われる、関ケ原の合戦での撤退戦が有名。わずか300名ほどの軍で、井伊直政を始めとする東軍最強軍団の間を残り80名程になりながら敵中突破したというものです。ここから戦況を冷静に見つめていた島津義弘がいたのだなと感慨深くなります。
玉宿~藤川宿
天下分け目の関ケ原の合戦場を抜け、国道365へ一旦出ます。この365号は「薩摩カイコウズ街道」という愛称が付けられているので、先ほどの島津義弘の陣と何か関係があるのかと調べてみましたが、別の理由で岐阜県と鹿児島県が姉妹都市であることから付けられたネーミングのようです。
伊吹山ドライブウェイの入り口を越えて、「玉」の交差点を越えると関ケ原を出発して初めての宿場「玉宿」があった集落へ入ります。
古い集落のようですが、特に宿場らしいところは残っていません…。ただこの道のクネリ具合や道幅は旧街道独特のもの。ついこういう道を見ると「これは??」と❝道萌え❞してしまうようになってしまいました…。
再び国道へ出て進むと、ここで滋賀県に入りました。
実は玉の集落から藤川交差点あたりまで、川沿いに街道は続いているはずなのですが、草木が生い茂り全く道が分かりません。さすがに進めないので、国道に出るしかなかったのです。
そして右手の坂道を登っていったところが「藤川宿」。先ほどの玉宿からの距離があまりにも短いのですが、これは後の小谷宿にも見られる上りと下りで宿場が分かれているためで、2つでセットの宿場ということらしい。
結構な斜度の坂をグイグイ登り切ったところに旧家がありました。ここが藤川宿本陣だった林家です。すぐ近所に脇本陣を務めた林家もあります。どちらも今でも立派な構えのお家です。ちなみにどちらも特に本陣だったとは、どこにも書いていません。
北国脇往還は藤川宿から先、伊吹山の麓に沿って進みます。街道は藤川宿の出口あたりで方向を山側へ向けました。すると、目の前に伊吹山が姿を現しました。
上平寺~春照宿
その後、大きい道にぶつかったところの交差点を左に曲がり、上平寺、弥高と進んで春照(すいじょう)宿へと向かいます。
で、この交差点を真っ直ぐ進めば「上平寺城跡」。城主であった京極氏の城館跡や弥高寺などの国史跡があります。めっちゃ寄り道したいのですが、これ行ったらプラス1時間はかかるでしょう。今回は無理ですね…。
しかし北国脇往還の近辺には数多くの城跡や合戦場や広がっており、まさに戦国ワンダーロードの様相。上平寺城以外にも魅力的な史跡が続いているのです。
しばらく気持ちの良いアップダウンの道を軽快に走ります。大清水の集落へと向かう県道531とは別れ、まっすぐ進んだところの信号のある交差点の手前に差し掛かると、左手に小さな橋が見えます。そこを渡った先にあるのが「野頭の茶屋跡」。
ここは北国脇往還で唯一残った史跡だと書いてあります。たしかに周辺にいろいろ見どころはあるものの、街道そのものに関する史跡は見当たらなかったような…。
松尾芭蕉はこの場所で、「頭巾召せ 寒や伊吹の山おろし」という句を詠みました。伊吹おろしは、さぞ寒かったのでしょうね。
米原グルメライドでもお馴染みの、「伊吹薬草の里文化センター」の前を通り過ぎ、
常夜灯のある交差点を右へ曲がると「春照宿(すいじょうしゅく)」。
この宿場町は、長浜から来る旧街道「長浜道」と北国脇往還が交わる場所であり、往時には賑わった街だったのでしょうが、今はちょっと寂しい感じ…。
春照宿であることを示す看板があるので、ここがかつて宿場町であったことはわかりますが、ほぼなにも残っていません。
ここでの注目は、春照宿の北端にある八幡神社の角に「左なかはま道 右北国きのもとえちせん道(かな?)」と書かれた道標のあるところ。
長浜道もなかなか魅力的な道のようで、長浜までの道中には、姉川の合戦で織田軍が浅井軍から奪った横山城や、石田三成の出生地である石田町を抜けていきます。こちらも是非行ってみたい道です。
姉川古戦場を抜けて…
そのまま真っ直ぐ進み、小田という地域に入ると脇には綺麗な水が勢いよく流れています。その先には「小田(やないだ)分水」がありました。
小田分水とは、上流にある「出雲井(いづもゆ)」という姉川からの取水路の水を三方へ分水する農業水利施設で、昭和28年に作られたものです。ちなみに出雲井というのは、1300年前に出雲(島根県)から来た人々が作ったと伝わっているものだそう。これもちゃんと調べてみたいネタだよなあ…。1300年前と言えば奈良時代でしょ? そんな頃に何故出雲から近江まではるばる来たのでしょうかね。歴史ロマンです。
ここからホントは真っ直ぐ姉川を突っ切るのですが、昔はあった橋も今はありません。なのでここは素直に迂回。
小田を右折し、「道の駅 伊吹の里旬彩の森」の前で左折。
そのまま道なりに進むと今庄町へ。
観光客がいっぱいのぶどう園を横目に、左方向へ斜めに入っていきます。
「七尾まちづくりセンター」の前に出ました。この辺りがちょうど姉川の古戦場。
周辺の史跡がよくわかるマップがありました。左手に姉川を見ながら、浅井・朝倉連合軍の陣地だったあたりを進みます。
ここでまた国道365へ。草野川を渡った先にはその昔「ふくらの森」と言われる、昼でも暗い広大な森が広がっていたのだそう。
当時は盗賊なども良く出る場所だったそうですが、今は商業施設も立ち並んで比較的賑やかな街になっています。
八島~上小谷宿
このあと県道276との交差点手前から、左へ斜めにそれていく細道を進みます。そして八島町の集落へと入っていきます。
この八島集落の先からはかなり複雑に道がなんども折れ曲がるのですが、ありがたいことに集落の入り口には詳しい案内地図が設置されていました。
しかも、
集落の中には4つも道標が残っており、街道ライド感が今日イチ盛り上がります。
それ以外にも、ごく最近建てられたと思われる木製の案内板や、北国脇往還の方向を示すコンクリート製の標識など、かなりこの地域は北国脇往還を強く押し出している感がありますね。ようやく旧街道を走っている実感がでてきました。
いよいよ北国脇往還は小谷城城下となる「小谷宿伊部」に入っていきます。この小谷宿も2か所に分かれており、伊部は上小谷宿、この先の郡上を下小谷宿と称したそうです。
伊部宿入り口には「小谷道」との分岐を示す新しい道標がありました。戦国時代ごろには、ここから国友を経由して米原へと繋がっていたようです。
伊部宿には本陣・問屋が各1軒があり、旅籠も11軒あったとのこと。本陣だった肥田家は元は造り酒屋だったそうですが、その後本陣専業となったそうです。今も趣のある立派な建物が残されていました。北国脇往還に入って初めてちゃんと宿場町であることをアピールしている宿場町です。本陣前に設置されている説明板には、「北国脇往還のほぼ中間地点に位置し…」とありますが、ホンマかな…、もう結構終盤のような気がしますけど…。
伊部宿の北端角に差し掛かると、そこから真っ直ぐ小谷城へ伸びる道がありました。そういえば小谷城もまだ訪れたことがありません。どうやら北国脇往還はリピート決定ですね。
郡上宿へ向かう途中の郡上南交差点の手前の蕎麦畑に、白い花が一面に咲いていました。蕎麦畑の向こうには小谷城址の山が…。「夏草や兵どもが夢の跡」という芭蕉の句が思わず頭によぎる風景です。
下小谷宿~木之本宿ゴール
その先が「郡上宿(下小谷宿)」です。往時は小谷城下の中心地であったそうですが、こちらには脇本陣1軒が置かれていました。水車のあるあたりが大谷市場というまさに中心街の跡。今は田んぼしかありませんけど。
郡上宿の北端だと思われる角に高札場跡がありました。隠れるような形で石碑が立っていました。
そこから右折してさらに真っ直ぐ北上。茶屋というバス停を通り過ぎ…。
川を越えて馬上という集落に道標がありました。北国きのもと道は左とある。ここを左折。
高時川を渡り、川沿いに北上すると「雨森」の集落に入ります。ここは江戸時代の儒者・雨森芳洲の出身地。芳洲は朝鮮語、中国語に堪能で幕府側の外交官として活躍した人なんです。
雨森集落には、今も風情ある街並みが残っていて、こちらもゆっくりと散策したくなるところ。しかし今回はこの時点で日が陰りだす始末…。出発が遅かったので仕方ないです。
雨森集落のどんつきに道標がありました。ここを左へ進みます。
また国道365に出て、ほどなく木ノ本へ。
田部東交差点を越え、東横町交差点の手前から左折で町へと入ったところが、鳥居本から続く北国街道との合流点です。
もうすっかり日没間際でしたが無事ゴール!
ここは木ノ本地蔵院や地酒・七本鎗の冨田酒造、きのもと交流館のある「木ノ本宿」の通りの南端です。
ストラバの記録では42kmでした。昔の人なら1日で完歩する距離です。
北国脇往還…
旧街道としては面影は消えつつありましたが、それ以上に魅力的な戦国史跡が周囲に溢れた道でした。また伊吹山を望む景観も美しく、サイクリングコースとしてはなかなか素晴らしいと思います。
自転車で行く近江の城シリーズとしても行きたい上平寺城や小谷城、横山城などがありましたし、その他「長浜道」や「小谷道」なんていう旧街道も新たに発見できたこともあり、当ブログとしても収穫の大きいサイクリングとなりました。
これは、本格的に寒くなる前にもう一度行こうかな?
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