最終日のスタート!
ついに最終日。
泣いても笑っても、たとえここまで来てゴールにたどり着けなくても、最終日。我々はただのサラリーマン…休み明けには職場に戻らねばならない。
大のオッサンがまるで20代の青年にでもなったかのように、背中に「中山道自転車走破」を掲げて走る青春ゴッコも今日で終わる…
思えばそんな我らヤジキタの土台となったのは会社のメンバーで立ち上げた「特殊部隊」というサークル活動。自転車での琵琶湖一周に始まり、スーパーカブでの四国横断、富士山登頂や阿蘇山ヒルクライムなど、このときばかりは仕事のことや、毎年一つずつ増えていく自分の年まで忘れてしまっていたものだ。メンバーそれぞれ家族が増えたり環境が変わったりしながら、知らぬ間に特殊部隊での活動は減って行ったが、年長者のオッサン二人だけは精神年齢がその頃から止まっていたらしい…
しかしお陰様で、今回の旅でも様々な経験をさせていただくことが出来た。きっと精神年齢の成長が遅いヤツは、まだまだ成長の余地が沢山あるってことかもしれない。
おっと、話が長くなってしまいそうだ。
さて7日目出発である。
この日は各務原から一気にゴールの草津宿を目指す120km。最終日だし何時に到着してもいいやってことで、最長距離をぶちこんでおいた。
天気はカラッと晴れ上がり、前回の東海道と同様に最高の最終日を迎えている。
まずは一旦中山道に戻る。昨晩宿泊したホテルは中山道から少し離れたところにあるのだ。次の宿場は「加納」。県道181号をJR岐阜駅に向けて進んでいく。
所々に道標や中山道を示す表示がある。今も昔も誰かがこうやって目印を残していってくれている。現在至っては特にそれが生活に役立つ訳でもないというのに、誰かがそれを頼りにこの道を通ることを願って・・・。
これだけ旧街道の案内表示にはお世話になってるのだから、私も後々こういった街道の保存や、そこに積み重なった歴史や風景の成り立ちを伝えていくことをライフワークにしたいなと思う。
木曽三川を渡る
大きな川に出くわした。長良川だ。
この橋を越えると「河渡(ごうど)宿」である。
読みが難しいが、字のごとく川の渡しがあった地だ。この字の地名は全国の川と街道が接するあたりには多くあると思われる。
しばらく郊外の街中っぽい普通の道を走り、次の宿場「美江寺(みえじ)」へ。
美江寺宿は江戸から数えて56番目の宿場だ。そこから名付けられたという五六川が手前に流れている。長良川と揖斐川という大きな川を渡る間の宿場として繁栄した。
中山道は美江神社の前で直角に曲がり、神社から真っ直ぐ伸びる宿場街の先で再び直角に曲がる。
岐阜に入ってから写真のような中山道の案内看板が設置されていた。これが曲がり角や交差点のどこかに設置されており、迷ったらこれを探せば中山道を辿ることができる。出発前、事前にトレースして作ったマップといくつか違うところも見つかった。そう言えば修正しようと思ってまだできてなかったなあ・・・。
しかし濃尾平野と言うのは大きな川が多い。木曽川・長良川に続いて揖斐川が現れた。これらを合わせて木曽三川と呼ばれる。
東海道はこれら大型河川の河口のある桑名宿から宮宿までを、海に出て一気に渡る「七里の渡し」となっている。そのくらい大きな流れの密集した地域なのだ。
中山道は東海道よりは上流なので川幅は相当狭くはなっているとは言え、それでも川を渡るのは大変なことであったろう。東海道の川越しを嫌って中山道を選ぶ人もあったというが、決して楽な道とは言えないのである。
余談だが、木曽川の流れを見ると木曽山脈から濃尾平野へ流れ出たあと、養老山脈の手前で大きく海側へカーブして流れている。木曽川周辺の地域は氾濫に悩まされてきたが、この流れが特に木曽川の右岸・美濃側へ洪水を起こしやすくなっている。さらに江戸時代には木曽川の左岸に尾張の徳川家領地を守るため「御囲堤」というものが作られたことで、より美濃への氾濫が増えたということだ。たしかによく見ると木曽三川は名古屋を取り囲むように流れていることがわかる。現在の大垣市は「水都(すいと)」としてPRしているが、そういう歴史や地形も理由にあったのかと思う。
戦国の匂い
揖斐川の(当時の呂久川)にあった渡しを利用した皇女和宮がこの場所で「落ちて行く 身と知りながら もみじばの 人なつかしく こがれこそすれ」という和歌を詠んだ。このことを記念し、1929年(昭和4年)4月26日に開園された公園が「小簾公園(おずこうえん)」だ。秋の紅葉の名所となっているらしい。その呂久の渡しも織田信長が安土に居城したことで尾張と近江の往来が増えて栄えたルート、これを江戸期に入って中山道として整備したのである。
小簾公園を過ぎると大垣市の中心へ。「赤坂宿」だ。
▲赤坂港跡
▲赤坂宿本陣跡
▲兜塚
赤坂宿の手前には杭瀬川が流れており、明治のころまで舟運が盛んであったようだ。
杭瀬川と言えば関ケ原の合戦の前哨戦と言われる「杭瀬川の戦い」があった場所。この戦いは西軍に軍配があがったが、その時の東軍側であった中村家の家老・野一色助義の首と兜鎧が埋められている「兜塚」があった。天下分け目の合戦場・関ケ原が近づいてきているのがこういった史跡からも感じられる。
この日はここまで登場の少なかったY工場長、なぜか関ケ原に近づくにつれてテンションがあがってきている。家康にでもなったつもりなのだろうか。でも私も妙な高揚感を感じずにはいられない。いざ関ケ原!
そうだ、今日は子供の日であった。相川にはたくさんの鯉のぼりが風に泳ぎ、その向こうには遂に滋賀の最高峰「伊吹山」が顔を出す。
「垂井宿」のある垂井には大学時代からの知り合いが住んでいる。中山道旅で垂井を通るよって言ったら、「ちょうどお祭りあるから是非寄ってみて」と情報をくれた。なのに残念ながらお祭りは昨日だったようだ。祭の後だったからなのか、休日にも関わらず垂井宿は異様なほど静かだった。
天下を制する道
垂井から関ケ原はすぐそこである。旧街道らしい細道が伸びる。
この細道がそのまま古戦場跡へと繋がっていた。最初に現れたのは東軍「山内一豊」の陣跡。家康率いる東軍はこの中山道を進み中山道を中心に布陣したのだ。ここはそのほぼ最後尾のあたりである。
そしてすぐこの先に、いよいよ徳川家康の本陣があった「桃配山」がある。
壬申の乱(天智天皇の息子・大友皇子と天智天皇の弟・大海人皇子の戦い)で後の天武天皇となる大海人皇子が陣を置いた場所である桃配山。家康もここに最初の陣を置いた。
陣跡には家康が使ったと言われる、「腰掛石」と「机石」が残っている。
腰掛石に座って石田三成が控える笹尾山方面を見下ろす。ここで家康は「厭離穢土欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」の旗を掲げ、天下分け目の戦いの軍議を行ったのであろう。・・・なんかわからんが天下獲った気分になってきた。
▲不破の関
その後いくつかの武将の陣跡などを巡りながら走る。
「不破の関」は古代三関(不破、鈴鹿、愛発)の一つ。古代三関とは畿内への敵の侵入を防ぐために作られた関所で、後に逢坂が入る。不破は現在の関ケ原、鈴鹿は現在の三重県の関あたり、愛発は現在の福井県敦賀市あたりと琵琶湖を囲むように配置されてのである。つまり滋賀は畿内を守るための防御ゾーンであった。そのため天下を狙い京を目指す各武将は、まず近江を獲る必要があったのだ。そして尾張から近江の地を制し、琵琶湖の周囲に城を建てて琵琶湖の制水権という物流手段まで手に入れた信長が、天下統一に手を掛けたのである。
そしてまた家康が関ケ原の合戦でこの不破の関を突破したのだった。もともと豊臣家の五大老で京都の伏見城にも普段からいた家康が新たな天下人として天下に知らしめるには、敢えて東国から力で関ケ原を突破する必要があったのかもしれない、などと想像してみる。
おっと、やはり関ケ原には歴史ロマンに満ちているワ。ついつい自転車旅と関係ないことを長々と書いてしまった・・・。消すのもなんだからそのままにしておいてもいいよね。オーケーオーケー!自分のブログだし。
そう言えば、終盤にきてY工場長の出演機会が少ないな。ひそかに最近このブログ読んでくれている方の中でY工場長の人気が高まっているらしいので、もうちょっと増やさないとな。
最後の最後になんかやってくれるかもしれないが。
(つづく)
コメントを残す