ロードバイクでめぐる近江八景(1)湖族の郷「堅田の落雁」(史跡編)

近江八景

「近江八景」という言葉をご存知でしょうか?
室町時代の関白 近衛政家 が中国湖南省にある洞庭湖の八景にちなんで選定したと言われている、当時の絶景ポイントです。
この近江八景はその後、歌川広重の浮世絵によって広く知られるようになりました。

➀比良の暮雪(比良山一帯:大津市)
➁堅田の落雁(堅田付近:大津市)
➂唐崎の夜雨(唐崎:大津市)
➃三井の晩鐘(三井寺境内:大津市)
➄粟津の晴嵐(粟津付近:大津市)
➅矢橋の帰帆(旧矢橋港付近:草津市)
➆瀬田の夕照(瀬田の唐橋付近:大津市)
➇石山の秋月(石山寺付近:大津市)

現代版の「琵琶湖八景」とともに滋賀県のホームページで紹介されています。
琵琶湖八景は滋賀県全体から選定されていますが、近江八景はほとんどが大津の周辺。
このあたりは選んだのが京都の貴族の方ということもあり、京都からの近さや街道沿いといった交通の面の影響もあるのでしょうね。

で、現在それらの室町時代の絶景は今どうなっているのか・・・、それを確かめたくなりましたので、いつものようにロードバイクで巡ってみたいと思います!

第1弾は堅田「湖族の郷」

最初からここに行こうと思っていたわけではないのですが、私が参加している「B_Mo Cycle協議会」と共催イベントを実施している守山自転車競技連盟の「エンジョイサイクリング」の企画で堅田までのショートサイクリングが実施されました。
せっかく行くのですからブログの取材も兼ねてと参加させていただいた次第。

ところで堅田って聞いてどんな場所?って思いますか?
私は昔バスフィッシング(ブラックバスをルアーで釣るやつ)をやってましたので、堅田の漁港にはなんどか足を運びましたが、はっきり言ってそれ以上でも以下でもないくらい特に印象はなかったし、浮御堂にも行ったことがありませんでした。
しかし最近何度か自転車で本堅田あたりの集落の中を走ると、すごく歴史情緒豊かな街並みが残っておりなんでだろ?って感じていました。

実は堅田は滋賀の文化や生活に大きな影響を与えてきた歴史的にも重要な地域なんです。

和田竜さん作の「村上海賊の娘」って小説を読んだ方は、現在のしまなみ海道のあたり芸予諸島には村上水軍と言われる海賊がいたことをご存知かと思います。
島と島の感覚が狭く流れが急なその場所で、彼ら海賊は水先案内や上乗り(いわゆる護衛役、海賊が上乗りしている船は他の海賊は襲わないという暗黙のルールがあったと「村上海賊の娘」にはあります。)をして、海の治安を守っていたのです。(もちろん海賊ですから勝手に彼らの領域を通過しようとすると襲われます・・・)
しまなみと同じく、琵琶湖の一番狭いところ・・・、それが現在の琵琶湖大橋がかかるところ。
野洲川河口の守山と真野川河口の堅田をつなぐ領域、そこが琵琶湖の海賊とも言われる

「湖族:堅田衆」が支配した場所なんです。

「湖族の郷」堅田の見どころ

そんな「湖族の郷」の歴史を感じさせる風景をいくつか紹介しましょう。

出島(でけじま)の灯台といって明治8年に建てられた珍しい木造の灯台です。ここは堅田船大工の本拠地。


大正時代にはランプでしたが台風で倒壊し、その後昭和48年に再建されました。
琵琶湖大橋から南下して今堅田の集落に入ってすぐの突き出た先にひっそりと建っており、中世にはこのあたりが湖上の関だったようです。


今堅田からさらに集落を南下して本堅田へと入っていくと、「居初家・天然図画亭」があります。ここは堅田衆の大ボス(筆頭頭首)の家。
居初という名も最初にこの地に居住したから名付けたとも言われます。
屋敷には茶室「天然図画亭」や庭園があり、見事な景観が見れるはずだったのですが・・・、
残念ながらこの日は閉館中でした。

そこからもう少し進むと、堅田のシンボル「浮御堂」があります。

正式には「海門山満月寺」と言い、京都大徳寺に属する寺院です。
歌川広重の浮世絵も浮御堂の風景が描かれており、まさに堅田観光のメインスポット。


広重、北斎、芭蕉、一茶といった日本を代表する歴史的な偉人たちがここを訪れ、絵画や詩に留めていっただけに、琵琶湖をバックに佇む浮御堂はさすが絵になります。


お堂の中には阿弥陀仏千体が安置され、これもなかなか見ごたえありですね。


浮御堂から続くメイン通りを西へ進むと「湖族の郷資料館」があり、堅田の歴史や湖族の成り立ちについて詳しく知ることができます。


2階の展示室では昔に使われていた漁具や農具なども展示されており、懐かしさを感じる空間となっています。

付近には様々な社寺があるのですが、なかなかどれも興味深いものが多いのが堅田の特徴。

こちらは自由都市堅田の中心的な社である「伊豆神社」。
堅田の支配者層はここに宮座を成立させて都市の運営を司ってきたのです。
実は堅田は京都とのつながりが非常に深い場所。特に京都「下鴨神社」の「御厨(みくりや)」として琵琶湖の魚などを献上する見返りに湖上の支配権や様々な税の免除などを受けることができたことが堅田衆の力の源泉だったようです。
この伊豆神社はそういった御厨の歴史を今に伝える社であり、現在も京都の葵祭の前儀として伊豆神社から下鴨神社まで鯉や鮒鮨を奉納する「献撰供御人行列」という行事が行われています。

そんな由緒ある神社なのですが、境内にはこんなパワースポットも。


「幸福を呼ぶ石」としてハート型の石が祀られています。石を撫でると幸せが訪れるようですよ!
私もお腹がもう少しヘッコミますようにって願っておきました。

堅田と浄土真宗

比叡山は天台宗の総本山。その比叡山にほど近い場所である堅田ですが、浄土真宗との結びつきが強い場所です。

それを伝えるお寺が「本福寺」。

浄土真宗8世宗主 蓮如上人は比叡山からの攻撃に追われ、京都から堅田の地へ身を寄せました。その時のお寺が本福時です。

堅田衆の力を借りつつ、この場所を本拠に真宗再興のための活動をしたのです。

そして蓮如と堅田衆の関係性がわかるエピソードを残すお寺も・・・

そのエピソードは「光徳寺」にあります。
この寺には「堅田源兵衛の首」という何やらおどろおどろしいものがあるというのです。

先に書いたように蓮如上人は比叡山から仏敵として追われていました。京都から堅田、守山、大津、そして金沢吉崎と各地に身を寄せながら再興のために布教活動を行っていたのです。
その際宗祖である親鸞上人の像を三井寺に預けておりましたが、ようやく山科本願寺を再興させることが出来た折、三井寺にこれを返すように申し出たところ「生首二つと引き替えだ」という無理難題を迫られました。
この話を聞いた蓮如の熱心な信者であった堅田の源右衛門は息子の源兵衛の首を斬って三井寺に持っていき、その場で自分の首を斬れと言いましたが、三井寺はその行いに感嘆し、源右衛門の首も斬らず像を返したという話です。


▲堅田源兵衛の像

浄土真宗再興にまつわる殉教悲話ですが、なんとも微妙なんですけど・・・。
だって、なんで息子の源兵衛の首なの? オヤジの首を先に斬っとけよと子を持つ親の身としては感じますよね。
が、そのくらい親子共々熱心であったということなんでしょう。


源兵衛の首はこちらに安置されているようです。入りませんでしたが。


奥にはお墓もありました。

強力な権力をバックに自由都市として発展した堅田ですが、このように延暦寺を中心とする天台宗の勢力とは宗教的に対立し、
時には延暦寺からの襲撃を受けることもあったようです。
今の日本の仏教からは考えられないほど、中世はあっちこっちで宗教戦争が多かったのですね。

そんな堅田の仏教にまつわるエピソードをもう一つ。
有名な「一休さん」ですが、まだ宗純と名乗っていた若き頃、堅田の祥瑞時にて修行し悟りを開きました。
そしてこの地にて「一休」の道号を与えられたということなんです。

なかなか奥の深い「湖族の郷」堅田、まだまだ秘密は一杯ありそう・・・。
(後編につづく)

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